2005年12月 5日 (月)

虚実の相関

これも以前「微小説」にアップしていたものです。
沙架さんは流体力学が専門の物理学者でフランス系企業の研究者でもあります。
文筆は専門ではありませんが、アイディアが秀逸で、おまけにユーモアたっぷりで笑えます。

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桜の木の上で

以前、後援会サイトの「微小説」にアップしていたものです。
ちょっぴり哀しい猫のお話です。

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2005年11月 6日 (日)

冥界訪問 第六話

「冥界訪問 第六話」藤かおり

 夢渡りという仕事に、典型的な例というものがあるのかどうかは知らない。が、少なくとも目の前にいる依頼人は、春駒にとっては変わった依頼人だった。
「ご本人としては、どうお考えなんでしょうね」
 亀も困ったような顔をして、首を傾げて依頼人に訊ねる。
「少なくとも、今のままよりはまだましなんじゃないかと思うんですよ。もう、毎晩のようにうなされっぱなしなんですから」
 依頼人の片割れ、母親が応えた。もう一人の依頼人である娘のほうは、じっと黙って俯いたままだ。

 今回の依頼人は、二人でやってきた。なぜそんなことができるのか、春駒にはその仕組みが全く見当つかないのだが、夢について悩んでいるのは娘のほうであり、それを見かねた母親が依頼してきた、ということらしい。
 こういう依頼のされかたは、初めてのことである。
「それはそうだと私も思いますが、一応ですね、ご本人の意向は確認しておきたいんですよ」
 そう言って、亀はまた娘をじっと見つめたが、娘は目を合わそうともせず、自分の膝の辺りを見つめている。耳にかけていた髪の毛が、はらりと落ちてその横顔を覆った。まだ中学生くらいだろうか。
 やや幼さの残るその横顔は、何かの痛みを堪えているようにも見えた。
「なぜ、そんなことにこだわるんです?」
 母親は、少しイライラした口調になってきた。
「それはですね、夢渡りが関わることが、必ずしもいい結果を生むとは限らないからですよ」
 亀は母親をなだめるように、噛んで含めるような口調で応える。
「私たちは、依頼されたことに誠意を持ってお応えしようと努力はします。最前は尽くしますが、それでもうまくいかないこともあるんです。ですから、依頼をされるかたにそのことを納得していただかないと」
「お願いしているのは、ただこの子の悪い夢をどうにかして欲しい、ということだけなんですよ」
「それはわかりましたが・・・」
 その悪い夢を見ている本人が、どうもあまり乗り気ではなさそうに見えるので、亀も春駒も迷っているのである。

「孝子、あなただってこのままじゃ嫌でしょ?」
 母親が俯いたままの娘に問い質すが、娘は両手の爪をいじくっているばかりで応えない。
 どうやらこの娘は孝子という名前のようだ。先ほどからずっと孝子の様子を見ていた春駒は、ここで初めて口を挟んだ。
「あの、お母様」
「何ですか」
 母親の方は、春駒を睨みつけるようにして顔を向けた。たぶん、すぐに依頼を受けてもらえると思っていたのだろう。色よい返事がなかなか帰って来ないので、怒り始めたようだ。
「少しの間、孝子さんとだけお話させていただけませんか」
 母親はちょっと逡巡したが、
「わかりました」
 意外と素直に席を立って、声の届かない離れた場所に座り直した。亀は、怪訝そうな顔で春駒のことを見つめている。何をしでかすのかと、心配なのに違いない。
「孝子さん、初めまして。わたし、春駒と言います」
 孝子はちょっと視線を上げて、微かに頷いた。
「あのね、これはわたしの勝手な想像で言うことだから、見当違いだったらごめんなさいね」
 春駒は身を乗り出して、囁いた。
「夢の内容がお母さんに教えるようなことは、しないから」
 孝子は、はっと顔を上げて春駒の目をまともに捕らえた。
「どんな夢があなたを苦しめているのか、それを誰にも知られたくないんじゃないかと思ったのだけれど」
 春駒を見つめる孝子の両目がみるみるうちに赤く縁取られ、唇が震え始めた。しかしそれでも、孝子は何も喋らない。
「守秘義務、ってわかるかな?仕事で知った他人様のことは、誰にも喋っちゃいけないっていう約束があるの。だからもしね、あなたの夢のことがお母さんに知られるのが嫌なら、絶対にお母さんには話さないって約束するけど」
「・・・本当ですか」
 擦れた声で、孝子がやっと口を開いた。涙をぽろぽろとこぼしながら、春駒を見つめている。春駒の推測は、的を射ていたようだ。
「うん、約束します」
 安心させるように力強く言うと、それを聞いた孝子はしゃくり上げ始めた。母親が離れた席から、心配そうに孝子の様子を窺っている。
「じゃあ、その嫌な夢をどうにかするために、あなたの夢の中にお邪魔していい?」
 改めてそう問うと、孝子はだいぶ長い間逡巡した。春駒も亀も、孝子が自分で決断するまで辛抱強く待ち続けた。
「お願いします」
 沈黙の後に、ようやく孝子は返事を返した。
「じゃあ、あなたが嫌な夢から解放されるように頑張りますからね。亀、お母さんのところに行って、夢の中身は秘密ですよって説明してきてよ」
 亀に向かってそう言うと、
「わたしがですか」
 さも嫌そうに、耳を後ろにべったりと倒して亀は春駒を見上げる。
「わたしは髪の毛を預かっておくから、その間に、ね」
「全く、面倒を押し付けるんだから・・・」
 ぶつくさと文句を言いながら、亀は座席から飛び降りた。尻尾を豪快に左右に振りつつ、母親の座っている席へと向かう。
「見て、あの尻尾!怒ってるんだよ、あれ」
 そう言って亀の後ろ姿を指差して笑いかけると、孝子は涙で火照った顔でほんの少し、笑った。

   *

「酷いですよ春駒さん、あんな嫌な役を押し付けて」
 レストランから出た亀は、まだ尻尾をブンブン揺らしながら春駒に抗議した。
「だって、あのお母さん怖いんだもん」
「何で母親の私が説明をしてもらえないんだ、って散々ごねられましたよ」
「本人が嫌だって言うんだから、しかたがないじゃんねぇ」
 それでも納得いかない、と、あの母親が小さな猫に食って掛かっている様子が目に浮かんで、春駒は思わず笑ってしまった。
「その代わりと言っては何ですが、情報が一つ入りましたよ」
 孝子は数ヶ月前、泊まりがけで遊びにいった母親の実家で火事に遭っているのだと言う。孝子と、そこに暮らしていた祖母と叔母は無傷だったが、叔父が焼死したらしい。
「え、火事!じゃあ、その火事の夢に怯えているんじゃないの?叔父さんが亡くなったところを見たとか・・・」
「あのお母さんも、最初はそう思ったらしいんです。だから精神科に受診もした。しかし孝子さんは、叔父さんが焼死するところは見ていないそうですよ。それにその火事の夢なら、こんな夢で怖かったんだ、と母親に打ち明けても良さそうなものです」
 確かに、それはそうである。いったい、孝子はどんな夢にうなされているのだろう。火事は無関係か。
「それにしても、なぜあの子が夢の中身を知られるのが嫌だとわかったんですか」
 亀がチラチラと振り向きながら訊ねる。
「う〜ん、半分当てずっぽうだけど」
「何だ、カマをかけただけですか」
「違うよ。あの子、たぶん小学校の高学年か中学生くらいでしょ?あの年頃って、けっこう後ろ暗い事を隠してるもんなのよ」
「後ろ暗い、って犯罪ですか?あの歳で?」
 亀は驚いて聞き返す。
「そんな大それた事じゃなくても、そうだね、大人からして見たら些細な事でも、当人にとっては重大事件だったりすることがあるのよ。だから、そういうようなことであの子が悩んでいるんじゃないかと思ったの」
 大人ではないが、幼い子供ではない。そんな年頃には、親に言えない秘密を胸に抱いていることがある。
 春駒自身もそんなことがあった。友達同士で「絶対内緒だからね」と約束したことは、親には口が裂けても言わなかった。今から思うと、それほどすごい秘密ではなかったのだけれど、当時は真剣に約束を守り通そうと思っていた。
 だから孝子もきっと、親には言えない、言わないと決心しているのではないかと思ったのである。
「ふ〜ん。人間って、変ですね」
「猫には秘密もへったくれもないでしょ」
「後ろ暗いようなことはしませんからね」
「嘘ばっか。夜中に盗み食いしてるくせに」
「だって、朝までお腹が持たない」
 そんなことを言い合っているうちに、亀と春駒は寂れた商店街に出てきた。

 開店休業中のような中華料理店の前を通り過ぎると、道は緩やかに左にカーブしていく。埃を被った商品を申し訳程度に並べた履物屋。100円均一のワゴンを歩道に出している、昔ながらの古本屋。
 この商店街は、横浜の再開発から完全に取り残されて、ランドマークタワーに見下ろされながら息をひそめている。
 売り物も買い物客も駅の大規模な地下商店街やデパートに奪われて、街ごと老い、朽ちていっているかのようだ。
 信号を渡って左に曲がると、玄亀横町に入る。気がつけば辺りは夕闇に包まれ、玄亀稲荷の入り口にある灯籠がぼんやりとした光を道に投げかけていた。
「今回の依頼は、けっこう楽かもしれないね」
「それは行ってみないとわかりませんよ。孝子さんがどんな夢にうなされているかによるでしょう?親御さんには秘密にしたいような事なんですし」
「まあ、大きい話でも、友達と一緒に万引きしたとか、そんな事じゃないかと思うんだけどな」
「それ、犯罪ですよ」
「火事とは関係なければいいけど・・・」
「なぜ?」
「あの子が火元だったりしたら、やりきれないもん」
 悪意はなくとも、遊んでいたら火がついて火事になってしまった、結果的に親戚が焼け死にました、とでもいうような話だと、救いがない。
「秘密にしたいことねえ」
 亀は、小首を傾げるようにして呟く。孝子のような年齢の女の子が後ろ暗い秘密を持つということに、あまりピンと来ないようだ。
「いずれにしろ、行ってみればわかる。でしょ?」
 春駒が亀の口癖を真似て笑うと、
「そうでしたね」
 亀も鼻をピクピクと動かして笑い、二人は玄亀稲荷へと入っていった。

   *

 孝子の髪の毛は、つるつるして結びにくかった。その手触りに若さを感じて、春駒はちょっと寂しくなる。
 二十代半ばとはいえ、鏡を見れば、歳を重ねて生きてきた自分の姿にため息が出る時もある。髪も肌も、十代の頃よりも艶を失った。鏡の中に十年後の自分を垣間見る事もある。
 歳を重ねて生み出される美しさもあると話には聞くが、確実に失われるものも存在することを、誰も否定はできない。
 孝子から見たら自分はお姉さんかな、それともおばさんかな、そんな馬鹿げたことを考えながら、春駒は足を進めた。

 霧雨が冷たい。
 鳥居から落ちてくる水滴が頭に落ち、こめかみを伝って頬を流れる。まるで泣いているかのようだ。
 この場所は、誰かの代わりに泣いているのかも知れない。だから、いつも霧雨が音もなく降り注いでいるんだ。
 そんな想像を巡らせているうちにふっと視点が前方に集まり、暖かいものに包まれていくような感覚を春駒は覚えた。

   ***

(おばあちゃんとおばちゃん、まだかな)
 そんな心のつぶやきで、春駒はうっすらと覚醒した。
 足はポカポカしているのに、肩の辺りが寒い。身体にかかっている布団を引っ張ったが、重くて肩まで上がってこない。
 春駒がお邪魔している人物は、今度は自分の身体を動かして、布団に潜り込んだ。布団の中は大きな空洞で、ちょっと暑いくらいだ。
―――あ、炬燵(こたつ)だ。
 この人物は、炬燵の中に寝っころがってうたた寝をしているようだ。引っ張っても布団が引き寄せられなかったのは、炬燵の上に乗っている台が重かったからだ。
 目の前には少女マンガの雑誌が開いたままになっている。この感じでは、どうやら無事、孝子にお邪魔できているらしい。

 孝子は半分覚醒しつつ、惰眠を貪っている。時計が時間を刻む音が、微かに聞こえてくる。
 春駒はこうして秒針の音を聞いていると、「寿命」という大きな塊から時間が細かく削り取られて、砂になって崩れていくような、そんな儚い気分になってしまう。
 どこかでガラガラと戸の開く音がした。続いて誰かが床を踏みしめて歩く音がする。
「おーい。あ、まだ帰ってないのか」
 孝子がいる部屋を誰かが覗く気配がして、男の声がした。声の感じからして中年の男性だから、焼死したという叔父なのだろうか。目覚めの時に聞いた「おばあちゃんとおばちゃん」という言葉も合わせて推測すると、どうやらここは火事が起きた家のようだ。
 夢を遡ることなく、いきなりここに来たということは、やはり孝子が苦しんでいるのは火事の夢なのかもしれない。
「うーん、まだ帰ってきてないよ」
 孝子が生返事をする。
「そうか。孝ちゃん、お腹空いてないか」
「・・・空いてない」
 孝子はかなりいい加減に返事を返すと、またトロトロと眠りに入った。

 お邪魔している孝子が半分眠っている状態なので、あまり情報が入ってこない。微かな意識から伝わってくるのは、祖母が腹痛を訴えて病院へ行っていること、叔母がそれに付き添っていったということくらいである。
  部屋の入り口の辺りに昔ながらの石油ストーブが赤々燃えている。そこからの柔らかい熱が、さらに頭をぼんやりとさせる。
―――うちのおばあちゃん家にもあれがあって、よくおばあちゃんがストーブで煮豆を作ってたなぁ・・・
 春駒はしばし、幼い頃の思い出に浸る。そして孝子は、夢の中でまた夢を見ている。
 宿題が気になっているようで、算数ドリルを開くところまではさっきから何度も出てくるが、いつまで経っても書き込まれることはない。
 まるで自分の小学生の頃を見ているようで、春駒はちょっと可笑しくなった。

   *

 ふくらはぎが痒い。
 孝子は手を伸ばして、左足を掻いた。ずっと左を向いて横になっているので、炬燵に暖められ過ぎたのだろうか。
 また、痒くなった。というか、くすぐったいような感覚だ。孝子はもぞもぞと身体を動かすと、寝返りを打った。だが、そのくすぐったいような感覚は消えない。その感覚に孝子も春駒も某かの意思を感じて、はっと目覚めた。
―――触っている・・・誰かが指で足を触っている。
 孝子が目を開けて炬燵の中を覗き込んだとき、春駒はそこに亀の姿を見つけた。亀は目を緑色に光らせながら、炬燵の中で蹲っている。
―――今の、亀がやったの?
 そう心の中で問いかけたが、答は別のところから返ってきた。

 首筋に、息がかかる。誰かが孝子の背後に身を寄せて、足を触っているのだ。煙草の匂いが、鼻につく。
「動いちゃだめだよ」
 振り向こうとした孝子に話しかけてきたのは、さっきの男だった。
「そのままでいるんだよ。じっとして、声も出しちゃ駄目だ」
 優しい口振りではあるが、その口調には孝子を威圧するものがあった。孝子は身を固くして、炬燵の中で縮こまる。
「怖くないからね。じっとしているんだよ」
 男、孝子の叔父はそう言って孝子の太ももを撫で回し始めた。その手が、段々と足の付け根の方へと上がっていく。
―――こいつ・・・何て男!
 孝子と二人きりなのをいいことに、この男は自分の姪を自分の欲求のはけ口にしようとしている。
「信夫おじさん、やだ」
 下着のゴムに指がかかったところで、孝子はやっとの思いで小さく声を上げた。しかしそのか細い抗議は、首に緩やかに伸びた手によって遮られる。
「お父さんにもお母さんにも、おばちゃんにもおばあちゃんにも言っちゃ駄目だよ。おじさんと孝ちゃんの秘密だ。いい子だから、おじさんの言うことを聞きなさい」
 孝子の細い首に指を軽く食い込ませ、諭すように、半ば脅すようにして叔父、信夫は囁く。
―――孝子ちゃん、すぐに立ち上がって、逃げなさい!こいつの言うことを聞く必要なんかないのよ!
 春駒は孝子の中で歯噛みしながら叫ぶが、孝子は怯えて動かない。自分の身に善からぬ事態が迫っているのは感じても、具体的に何が起こるのか判断がつかないようだ。
 しかも相手はよく知っている人物で、しかも大人だ。逃げたいと思う気持ちと、言うことを聞かなければならないという気持ちに引き裂かれて、孝子は結局身動きが取れない。それをいいことに、信夫の醜悪な行為はエスカレートしていく。
「いい子にしてなさい。気持ちよくなるからね」
 信夫は下着の上から、ゆっくりと孝子の陰部をなぞり始めた。信夫の息がだんだんと荒くなる。
―――気持ちいいのはあんただけよ、この下司!孝子ちゃん、早く起き上がって逃げるのよ!
 春駒は泣きたいような気持ちで、孝子に呼びかける。しかし夢渡りの春駒の声は、孝子には届かない。

 春駒は、今の孝子と同じように身近な男性から性的な「いたずら」をされ、それを心の傷として引きずっている友人の話を聞いたことがある。そして春駒自身も、相手は近親者ではないが、同じような経験がある。
 「いたずら」するほうにとっては「いたずら」でしかないのかも知れないが、それを受けたほうは「いたずら」では済ますことのできない、深い傷がついてしまう。
 やがて誰かを好きになり、その相手と身体を合わせたいと思った時に、この悪夢は甦る。
 好きな相手が愛おしんでしてくれているはずの愛撫に感じることを、心が拒絶する。どこか心の奥の方で「感じることはいけないことだ、穢らわしいことだ」と己を糾弾する声が聞こえてくる。
 身体と心がバラバラになって、身の置き所のない罪悪感に苛まれる。この身体を持って生まれてきたことが、罪であるかのような気持ちになる。
 皆が皆、そうではないのかも知れないが、少なくとも春駒はそういう想いを抱いたことがあった。
―――亀、何とかしてよ、助けてよ!
 孝子が今受けている屈辱は、春駒のものでもある。春駒は何もできない自分が悔しくて、涙を流した。

   *
 
「ほら、気持ちいいだろう?」
 信夫は身体をすり寄せながら、孝子の下着の中に指を差し入れる。太ももに怒張した陰茎が当たるのを春駒は感じたが、孝子にはわからなかいかも知れない。むしろそのほうがいい、せめて今はわからないでいて欲しいと春駒は願う。
「気持ちよくなるよ、もうすぐだよ」
 信夫の指は、徐々に乱暴になってゆく。陰唇を指で開くようにして、中心を擦り上げる。
「・・・痛い」
 慣れない刺激に鋭い痛みを感じて、孝子は思わず身をすくめた。しかし信夫は、春駒にはとうてい許せない言葉を投げかけた。
「孝ちゃんがいけないんだよ、おじさんが悪いんじゃない」
 そして信夫の指が、孝子の身体の入り口へ無理にねじ込まれた。
「痛い!痛い!」
 頭の天辺に突き刺さるかのような痛みに、孝子は泣き叫んだ。痛みの出所は股間なのに、その痛みは身体の中心を貫く。
 その叫び声に、信夫は一瞬ひるんだ。
 その隙に孝子は炬燵に一度潜り込んで、反対側から這い出てきた。
「やめて、やめて」
 泣きながらずらされた下着を引き上げて、信夫に向かって懇願する。
「大人しくしろ!声を上げるんじゃない!」
 信夫は恫喝して立ち上がろうとしたが、半分ずり下ろしたズボンと下着が足に絡まって、よろけている。

 春駒は、信夫が許せなかった。
「孝ちゃんがいけないんだよ、おじさんが悪いんじゃない」
 この言葉が、許せなかった。孝子が女だったからいけないと言うのか。一人で寝ていたからいけないと言うのか。

 炬燵の上に、果物を乗せた籠が置いてある。蜜柑や林檎の入ったそれの中に、茶色くて細長いものが見えた。
 果物ナイフだ。
 ちょっと手を伸ばせば、届く。鞘から抜いて、相手に向ければいい。自分を守るのだ。孝子は炬燵の上に手をついた。
「春駒さん、いけない!」
 炬燵の上に、茶色いものが躍り出た。果物の入った籠を背に、亀が立ちはだかっている。
「春駒さん、落ち着いて!あなたがあまりにも強く思うと、孝子さんが影響されてしまう!」
 はっと気づいた途端、視点が後退したような感じがした。今の一瞬、春駒は自分の視点で果物ナイフを見つめていたのだ。
―――どういうこと・・・
 春駒は自分がどうなったのか理解できず、混乱している。
「さあ、孝ちゃん、こっちに来なさい」
 今度は信夫が立ち上がり、ゆっくりと炬燵を廻り込んできた。亀の姿は、春駒以外の人間には全く見えていないらしい。
 孝子は必死で左右に目をやり、逃げ場を探す。しかし正面から信夫が手を伸ばし、孝子の腕を掴んだ。
「やだ!離して、離して!」
「声を出すな!」
 信夫は声を押し殺し、そのまま孝子の口を塞ごうとした。
―――孝子ちゃん、逃げよう!力を振り絞って逃げようよ、頑張れ!
 落ち着け、とついさっき亀に忠告されたばかりだが、気がつけば春駒は必死になって孝子を励ましている。それが功をなしたのか、孝子は信夫の腕をくぐり抜けるようにして部屋の出口に向かった。

 孝子の右足が、灰皿を踏みつける。吸いさしの煙草や吸い殻が、畳に散らばる。
 信夫はまだ、孝子の左腕を捕らえている。
「待て!」
 手を伸ばし、孝子の襟首を掴もうと腕を伸ばした時、信夫の膝が入り口近くに置いてあった石油ストーブに当たった。
 思わずバランスを崩した信夫は、反射的に手をついて体勢を立て直そうとした。
「ぎゃあああ!」
 信夫が手をついたのは、ストーブの上だった。大慌てで手を離した瞬間、足でストーブを蹴飛ばしてしまった。

 その場面は、まるでスローモーションの映像を見ているかのように、春駒の目に映った。
 いちいち探すのが面倒だから、よく使うところにおいてあるのだろう、ストーブの金網の内側に、マッチ箱が置いてある。
 信夫がストーブを蹴飛ばした瞬間、箱からはみ出した二〜三本のマッチに火が移った。
 ストーブが大きく傾き、灯油の強い匂いが鼻を刺す。安全装置が働いてストーブの火は消えたが、マッチの火は消えない。
 炎の帯が畳の上を這った。狙いすましたように、信夫のズボンに炎が駆け上がる。信夫は奇声を発しながら、ズボンをはたいて火を消そうとしている。
 炎の帯は炬燵布団に伸びていき、チリチリと小さな音をたてながら、布団の花柄模様を黒く縁取っていった。
「おい、助けてくれ、水を持ってきてくれ!」
 孝子は尻餅をついて座り込んでいた。怯えた目で信夫を見つめながら、廊下へとにじり出る。
「孝ちゃん、お願いだよ、水!水を持ってきてくれ、頼む!」
 懇願する信夫の声に、孝子は耳を塞ぎ、目を瞑った。
 亀が呼んでいるような気がしたが、春駒も孝子と一緒に耳を塞ぎ、目を瞑った。

   *

 家から流れ出る煙に気づいた近所の人の通報だろう、ドカドカと足音をたてて、数人の銀色の男達がなだれ込んできた。
 孝子が無事救助されるのを確認してから、春駒は孝子の中から抜け出た。道端に亀が座っているのを見つけた春駒は、駆け寄ってそのしなやかな身体を抱き上げた。
「この夢は、捨ててあげたい」
 亀の首筋に顔を押し当てて、春駒は呟いた。
「孝子さんが望むなら、ぜひそうしてあげましょう」
 亀も、辛そうな声で応えた。
 
   ***

 孝子とその母親が待つレストランに向かう道すがら、春駒と亀は孝子の夢をどうしてあげたらいいか、話し合った。春駒が、孝子の夢を持ち去ることに異議を唱えたのだ。
 しかし、いくら話し合っても堂々巡りになってしまう。
「孝子さんの辛い気持ちを考えると、現時点では夢を取り除いてあげるのがいいでしょうね」
「今はそうだけど・・・」
「もしかしたら、この先ずっと忘れていられるかも知れないですし」
「う〜ん、それはどうかな」
 身体がきっと覚えている、春駒はそう思う。今は忘れることができても、誰かが信夫のことに触れたり、孝子自身が誰かとベッドに入った時に、身体に刻まれた記憶が甦るのではないか、そう考えてしまう。
 だから春駒は、闇雲に夢を持ち去って問題を先送りにすることが最善の策なのかどうか、悩んでいるのだ。
「しかし、孝子さんは叔父さんに善くないことをされた、ということだけでなく、自分が叔父さんを見殺しにした、ということでも思い悩んでいますから、そっちをどうにかしてあげたいと思うんですよ、私は」
「だって、あれは孝子ちゃんのせいじゃない」
 自業自得だ、と春駒は憤った。孝子が受けた辱めを思うと、ざまをみろ、といった感じだ。怒りに任せてそう言うと、
「春駒さんの気持ちもわからないではないですが、人一人死んでいますからね、その衝撃と罪悪感は大きいと思いますよ」
「罪悪感なんて、感じる必要なんかないのに」
 そうは言ったものの、孝子が罪悪感をぬぐい去れないことは、春駒にも充分にわかっていた。

   *

 結局、孝子本人と話し合うしかない、という結論に達した。
 待ち合わせ場所のレストランの扉を押すと、窓際の席に二人はいた。小春日和の柔らかな日差しが大きな窓から差し込んで、水の入ったグラスに当たっている。グラスのカットが太陽を滲ませて、テーブルクロスには光の紋様ができていた。
「お母様、申し訳ないんですが、まずは孝子さんとだけ、お話をさせていただきたいのですが」
 孝子の母親から何か訊ねられる前に、亀が有無を言わさぬ口調で先手を取った。
「でも私は母親・・・」
「ご本人にまず、報告をさせていただきたいと思います」
 亀はきっぱりと言いきって、孝子の母親の抗議は全く受け付けない。母親は渋々席を立ち、離れた場所に座った。

 改めて見ると、孝子は痩せていて、身体の線などまだまだ幼い。こんな子がどうしてあんな目に遭ってしまうのだろうと、春駒は悲しくなる。
「孝子さん」
 亀が呼びかけると、孝子はビクッと肩を震わせた。顔は下を向いたままである。目の前の相手が、自分がどんなことをされたのかを知っているというのは居たたまれない気分だろう。
「春駒さんは、あなたの夢を持ち去ることができます。そうすれば、あの火事の日のことは忘れられるはずです」
 「夢渡りの御遣い」の常識に照らして、ということである。今回はその常識が通じないかも知れないと、春駒は言うのだが。
 忘れられる、という言葉を聞いて、孝子は目線を上げた。本当だろうかと訝しんでいる目を春駒に向ける。そして亀も、春駒が反論するのではないかと思っているのだろう、春駒の顔を窺うようにして見た。
「忘れちゃいなさい」
 春駒は強い口調で孝子に言った。
「世の中、忘れちゃったほうがいいこともあるのよ。火事のことはね、気にしない。どうせあの時、孝子ちゃんが水を持ってきて叔父さんにかけてあげたって、消えっこなかったんだから。わたしはちゃんと見ていたんだから、知ってるの。あんな火、孝子ちゃんじゃあ消せないわよ」
 春駒は一息にまくしたてた。「自分が何もしなかったから、信夫は焼け死んだ」という孝子の思いだけでも、この場で打ち消してやりたかった。
 それには、夢とはいえ、一応現場を見ていた第三者の意見が一番だと、春駒は考えたのである。
「そして叔父さんにされたことも・・・少なくとも今は、忘れていたほうがいい」
 さっきと違うことを言いだした春駒に、亀はびっくりしている。目をまん丸くして春駒の顔を見上げたままだ。
「今は、って・・・どういうことですか」
 孝子は小さな声で訊ねる。
「孝子ちゃんは、心だけじゃなくて身体も痛い思いをした。そうだよね」
 泣きそうな顔で、孝子は頷く。
「だから、何かの拍子に身体がその痛かったことを思い出すことがあるかも知れない。だけど、いつかその痛みを手当てしてくれる人に逢えるから。必ず、逢えるから」
「手当?」
「孝子ちゃんの心と身体を、心底慈しんで、大切に思ってくれる人が現れて、手当てしてくれるのよ」
 孝子には、よく理解できていないようだ。だが、春駒の自信に満ちた物言いに、少し安心したようでもある。
「もし、また思い出して嫌な夢を見てしまったら、もう一度いらっしゃい。わたしと春駒さんが、またその夢を持ち去ってあげますから」
 亀が優しく、孝子に言った。
「そうだよ、何度でも頼まれてあげるからね」
 春駒も言い添えた。
 孝子は泣き笑いの顔で、春駒と亀に頷いた。

    *

 孝子の母親には、亀が話をしに行った。叔父の悲鳴が夢の中で聞こえて怖かった、という話を孝子と相談して作り、それで押し通すことにしたのだ。
「ではそろそろ行きましょうか」
 母親との話を終えた亀が戻ってきて、春駒に声をかけた。春駒は頷いて、席を立つ。
 レストランを出る時に、春駒はちょっと振り向いた。母親が孝子の髪を撫でながら「怖かったね、もう大丈夫だよ」と涙ぐんでいるのが見える。
 毎晩のように夢に怯える娘のことが、心配で堪らなかったのだろう。この親子のためにも、孝子の夢はきちんと葬り去ってやりたいと春駒は思った。
 
 街は夕暮れ時である。亀と春駒は、冷たくなってきた風に身をすくめながら、掃部山へと向かった。
 掃部山を覆う下草は枯れて、春駒がかきわけるたびにカサカサ乾ききった音を立てる。夏の間、鬱蒼と葉を茂らせていた木々は、緑の衣を脱ぎ捨てて、いかにも寒そうだ。しかしよく見ると枝の先の芽はふくらみ始め、うっすらと赤く色づいている。
  もうすぐ、春がやってくるのだ。木々は季節を土と風から感じ取って、芽吹くための力を蓄えている。
 てっぺんまで登ってくると、しめ縄をした大きな欅の木、この山のご神木が現れる。現実世界では、緑青の浮いた井伊直弼の銅像が立っている場所だ。
 他の木々はみな葉を落としているというのに、この年老いた欅だけは、青々とした葉を茂らせている。

 ご神木の裏に回ると、ウロの中に小さな祠がしつらえてある。
 春駒は手首から孝子の髪の毛をそっと解くと、懐紙を出して優しく包んだ。それを祠の中に供え、大きく柏手を二つ打つと、深く頭を垂れて待った。
 亀も、春駒の足元でじっと畏まっている。
 
 梢の上のほうで、欅が囁く声がする。さわさわという柔らかな音が、まるで玄亀稲荷の霧雨のようにも聞こえてくる。
 春駒の頬をかすめるようにして、欅の葉がひとひら、落ちてきた。
 それをそっと拾い上げると、春駒はもう一度、欅の木に向かって深い礼をした。

   ***

 朝目覚めて、下のポストに新聞を取りにいくと、白い封筒が届いていた。部屋に戻ってベッドに腰掛け、封を切る。
 中から、欅の葉がひらひらとこぼれ落ちる。それを拾って封筒に戻そうとしたとき、その中の一枚に、傷のようなものがあるのに気づいた。
 何か、鋭い針のようなもので金釘流に引っ掻かれたそれは、
「孝子」
 と小さく書かれた文字だった。
「ねえ、亀、孝子ちゃんからお便りが来たよ」
 ベッドの真ん中を占領して顔を洗っている飼い猫の亀に、その欅の葉を差し出してやった。
「いつか、孝子ちゃんにいい彼氏ができるといいねぇ」
 亀は名前の書かれた葉の匂いを嗅ぐと、それに同意するかのように目を細めて、甘えるように一声鳴いた。

                               了

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2005年11月 5日 (土)

冥界訪問 第五話

「冥界訪問 第五話」藤かおり

 春駒は、ものすごく焦っていた。とにかく急いで客をさばかなければならないのに、機械が動いてくれない。
 スイッチを何度も入れ直し、キーを抜き差ししても、機械はじっと黙りこくったままだ。
「お願いだから動いて!」
 焦れば焦るほど客の視線が自分に集中するような気がして、春駒は脇の下に汗をかき始めた。
 と、突然カウンターの上に茶色いものが出現した。
「お困りのようですが」
 黄色く光る眼をじっとこちらに見据えながら話しかけてきたのは、飼い猫の亀である。
「亀じゃないの!どうしたの?」
 そこまで話しかけて、春駒は夢を見ている自分にやっと気づいた。
 
 「夢を見ている」という自覚は、いろんなきっかけでやってくる。ニッチもサッチもいかない窮地に立たされた時に「ああ、これは夢だから何が起きても大丈夫だ」と気づくときもあるし、最初から「今は夢の中にいるな」と何となく感じているときもある。
 だが、一番わかり易いのは、こうして猫である亀が自分と同じ言葉で話しかけてくる時だ。
 現実世界では、どんなに願っても亀が人間の言葉で話しかけてくることはあり得ない。
 
「依頼が来ました。一緒に来てください」
「え、じゃあここはどうするの?」
 ここは春駒の職場である。亀と話している間にも客は続々と入ってきて、春駒の目の前には長蛇の列ができつつあった。
「放っておけばいいですよ。さあ、早くこっちにいらっしゃい」
 そんな命令口調で春駒に声をかけると、亀は軽快にカウンターから飛び降りて、人々の足の間をすり抜けていった。
 亀の姿を見失いそうになった春駒は、慌ててカウンターから抜け出ると、
「すいません、すいません」
 と頭を下げながら、人ごみをかきわけて店を出た。

 店を出ると、そこはなぜか新宿駅の地下通路だった。現実世界での春駒の職場は新宿ではない。何でこんなところに来たのだろうと思いながら、雑踏に消えていきそうな亀の後ろ姿を必死で追うが、行き交う人の波に逆らって歩いているので、なかなか進まない。
 ロータリーの前で亀は通路の右側に寄り、角の喫茶店の前で足を止めた。
「ここに来てるの?」
 やっと追いついた春駒が亀に話しかけると、
「春駒さん、足遅いです」
 亀は尻尾を振りながら応えた。
「だって、人にぶつかりそうなんだもの」
「人間は図体ばかり大きくて、大変ですね」
「余計なお世話よ」
 生意気な口を訊くので、春駒は亀の身体を尻尾から頭のほうへ逆なでしてやった。亀は背中をぞんわりと動かして身震いすると、
「さあ、入りましょう。もう待っているはずですから」
 春駒を促して店の中に入った。

   *

 内装の茶色っぽい、やや暗い店である。一番奥の席に男性が一人、煙草を吸いながら座っていた。スーツ姿の男性の年齢はわかりにくいが、春駒よりも一回りくらいは上だろうか。三十代の後半くらいに見える。
 亀はその男性の姿を見ると、急に足を止めた。春駒は亀を踏んでしまいそうになって、もう少しで前につんのめりそうになる。
「ちょっと、急に止まらないでよ」
 その様子が目にとまったのだろう、男性が顔を上げてこちらを見、
「あ、あなた夢の・・・」
 と話しかけてきた。この男性が依頼人のようだ。右目の下に涙ぼくろがあって、ちょっと泣いているようにも見える。
「すみません、お待たせしました」
 春駒は足元で突っ立ったままの亀を抱き上げて、急いで席に着いた。
「探し物とかをしてくれるのだそうで」
「ええ、まあ」
「昔のことでも、大丈夫なんですか」
「ええ、たぶん・・・」
 そう言って春駒は膝の上の亀の様子をうかがったが、亀はずっと黙りこくったままである。
「何かを探しているんですか」
 春駒はしかたなしに、自分一人で話を進めることにした。
「ええ、必ずそこにあるはずなんですが、何度そこに行っても見つからないんです」
 ということは、これは単純な「失せもの探し」の依頼だろうか。
 現実の世界で失くしものをして、それの行方が気になって夢で探しまわる、ということはよくある。
 そして、そんな失くしものは得てしてどうやっても見つからないものだ。自分で失くしたのだから、それがどこにあるかは自分が一番良く知っているはずなのに、その記憶は頭の中の埋め立て地に眠ってしまっているのである。
 春駒も、これまでに何度か同じような依頼を受けてきた。依頼人の頭の中の埋め立て地から記憶を掘っくり返すように、幾度も幾度も同じような夢を往復しては、失くした瞬間を探し当てるのである。

「ご自分でも何度かお探しになっているんですね」
「ええ」
「でも、どこに仕舞ったかわからない、と」
 そこで依頼人はちょっと言い淀んだ。
「仕舞った、というわけではないんですが」
「と言いますと?何をお探しなんですか」
「石を探して欲しいんです」
「石」
「はい」
「・・・まさか、どこにあるかわからない石を探す、ということではないですよね」
 未発見のストーンサークルだとか卑弥呼の墓を探す、などという依頼は御免である。
 たまにいるのだ。
「これまでの常識を覆すような歴史的発見の啓示を夢の中で受けたので、証拠の古文書を一緒に探して欲しい」
 といったような、春駒の手には負えないような依頼を持ち込んでくる人が。一緒に探してやってもいいが、たとえ見つけ出したとしても、それが必ずしも現実世界に存在しているとは限らない。なぜなら、それはあくまでも夢の中での出来事だからだ。
 後になって、
「あの時見つけたあれはどこに行った、夢から醒めて探しにいったのに、見つからなかった」
 などとねじ込まれては堪らない。

「いや、どこにあるかはわかっています」
 依頼人は確信ありげに応えたが、春駒はまだ疑っている。諸説入り乱れている邪馬台国論争のように、本人が「ここにあるはずだ」と信じているだけで、そこにあるという確かな根拠がない場合もあるからだ。
「あの、私はご本人が失くしたものじゃないと探せないんですが・・・」
 恐る恐る問い質すと、
「あ、それはそうなんです。手に持っていた石を落としてしまって、それを探したいんですよ」
 それならば探せるかも知れないが・・・
「いつ頃、どこで落としたんですか」
 子供の頃に河原で見つけた綺麗な石を、ポロッとその場で落としてしまいました、などという話だと、いくら夢渡りの春駒でも無理というものである。
「十五年ほど昔に、家の近くの採石場で」
「さ、採石場?」
 無理だ。
「落としたのは石ですよね、それはちょっと難しいと・・・」
 石ころだらけの採石場で、どうやってたった一つの石を見つけられると言うのだろう。
「目印があるから、落とした正確な場所がちゃんと思い出せれば、きっと見つかると思うんです」
「目印ですか?石に?」
 夜光石とか言いだすんじゃないかと、春駒はますます憂鬱になってきた。

「この依頼は、春駒さんには難しいと思います」
 これまでずっと黙りこくって膝の上に蹲っていた亀が、突然口を開いた。
「大変申し訳ないんですが、他をあたっていただけませんか」
 口調は丁寧だが、亀の両耳は頭にぴったりと貼りつき、尻尾が左右に忙しなく動いている。何やら緊張しているようだ。
 亀が断るところをみると、やはりこの話は古文書探しのような類のものなのだろうか。
 そういうとき以外に亀が依頼を断ったのを、春駒は見たことがない。それにしては、亀の尻尾がブリブリ怒っているのが解せないが。
 依頼人は新しい煙草に火をつけると、目を細めて亀の顔をじっと見つめた。
「何か問題でも?」
 やや身を乗り出して、依頼人は亀に訊いた。何となくではあるが、春駒はこの依頼人が亀の態度を面白がっているように感じた。
「春駒さんは、まだ夢渡りを始めてから日が浅いものですから、ご依頼の内容がちょっと手に余るんですよ」
「そうですか・・・」
 依頼人はそのまま黙って煙草を吸い続けている。
「そういうわけで、申し訳ありませんが今回はご遠慮させていただきます。さ、春駒さん、行きましょう」
 亀は春駒の膝から飛び降りると、店を出るように目で促した。
「あ、じゃあ、そういうことですみません、お役に立てなくて」
 春駒も慌てて立ち上がると、一つ頭を下げてそそくさと店を出た。

   *
 
 さっきまでは新宿駅だったはずが、店を出たとたんに原っぱに来ていた。
「変な依頼だったね。UFOを呼ぶ石を探して、みたいな話かと思っちゃった」
 ちょっと先を行く亀に話しかけてみると、亀は立ち止まって春駒に振り返った。
「依頼は選びませんとね」
 ヒゲをピクピクと動かして、亀は応える。笑っているようだ。
「ねえねえ、夢渡りをしてる人って、たくさんいるの?長くやってる人がいるの?」
 春駒は、先ほど亀が依頼を断った時、その理由が「春駒はまだ夢渡りを始めて日が浅い」からだ、というのが気になっている。
 春駒がこの仕事を始めたのは、亀を拾ってしばらく経ってからだから、ここ二〜三年のことだ。それで日が浅いというのだから、長くやっている人はいったいどれほどなのだろうと思ったのである。
「この仕事は特殊技能ですからね、そうたくさんはいないと思いますよ」
「亀は全員を知らないの?」
「まさか。知っているのは春駒さんだけですよ」
「そうなの?」
 春駒は驚いた。春駒はてっきり、亀が統括して「夢渡りたち」を管理しているのかと思っていたのだ。
「だってさっきあの人に、わたしは始めて日が浅いから他をあたってくれ、って言ってたじゃない」
「ああ言わないと、断りづらかったので」
 亀はしらっとして応える。
「他にも夢渡りがいるのは知っていますが、誰がやっているとかどのくらいやっているのかということは、わかりません。一人の夢渡りにひとつ、御遣いがつくので」
「おつかい?」
「依頼を持ってくる役目のことですよ」
「ふ〜ん・・・」
 わかったようなわからないような、中途半端な気持ちで考え込んでいると、
「さ、今の依頼はなかったことにして、お仕事に戻ってください」
 気がつくと、いつの間にか春駒の職場の前に戻ってきている。
「え!これから仕事するの?」
「元の夢に戻るだけですよ。きっと機械はちゃんと動くはずですから。ではまた」
 そう言い捨てて、亀はスッと路地に入ってしまった。
「・・・やるか」
 春駒は渋々、長蛇の列がそのままになっている職場の中へと入っていった。

   ***

ガチャン、という金属音に続いて、「ピーピーピー」と耳障りな甲高い電子音と共に、テレホンカードが吐き出された。
 春駒はカードをひったくると乱暴に挿入口に突っ込んだが、カードはまるで「もう嫌だ」とでも言うかのように弓なりにしなる。
 何度か突っ込んでいるうちに、やっとテレホンカードは緑色の箱の中に吸い込まれた。プッシュボタンを七回ほど押したところで、春駒はまた受話器を戻し、苛立たしげなため息をついた。
 さっきから実家に電話をかけようとしているのだが、何度ダイヤルしても途中で番号を押し間違ってしまうのである。

 自分が夢を見ていることを、春駒は今、充分に自覚している。しかしそれでも、この焦りはどうすることもできない。このような内容の夢を、春駒は年に数回、多い時には月に一度は見るのだが、それが長じてこの頃では、現実に電話をする時にも緊張してボタンを押し間違えてしまうほどなのだ。
 どうしてこんな夢を頻繁に見るのかは、春駒自身には全くわからない。だが、この夢のおかげで生活に支障が出ているのは事実なので、どうにかしたいのはやまやまなのだが・・・
「どうしてこんな夢を見るのか、知りたいんですか」
 急に話しかける声が聞こえてきて、春駒はびっくりして顔を上げた。緑色の四角い電話機の上から、緑色に光る目がこちらを見つめている。
「あ、亀」
 尻尾をゆらりゆらりと動かしながら、亀は春駒の顔をまじまじと眺めた。
「と言いますか、春駒さん、何でこんな夢を見るのか、本当に心当たりがないんですかね」
「・・・特に」
 首を傾げて応えると、亀は耳を後ろに倒してしかめっ面をした。
「春駒さん、あなた電話が嫌いでしょうに」
 そう改めて言われると、確かに好きではないような気がするが。
「どこかに電話をかける時には、話す内容を吟味してからかけるでしょう?しかも緊張して」
「吟味ってほどじゃないけれど・・・それに緊張はしてないような気がするけど」
 そう応えると、亀は鼻を鳴らして、
「飼い主が緊張しているかしていないかが、わからないような猫はいませんよ」
と、半ば馬鹿にしたような口調で言う。
「夢渡りなんですから、自分がどんな理由でどんな内容の夢をみるのかくらい、たまには考えましょうね」
「え〜、そんなのいちいち考えたくないよ」
 そんなことまで気にしながらでは、安眠などできそうにない。
「それより、何しに来たの」
「依頼ですよ」
「あれ?今回早くない?」
 今までは、依頼が来るのはせいぜい月に一度くらいのものだった。だがこの前石探しの依頼を断ってから、数日しか経っていない。
「依頼人の方が、ずいぶん参っているみたいなので」
 そう言って亀は電話機から飛び降りると、春駒の顔を見上げて、電話ボックスの扉を開けるように促した。

   *

 電話ボックスの目の前は大きな道路になっていた。だが人通りも車も少なく、灯りも乏しい。
 後ろを振り向くと、やたらと高いビルがそびえている。左手を見ると、電飾で「Hotel Okura」の文字が見えた。どうやら、虎ノ門にいるようだ。この界隈はオフィス街だから、夜になると寂しくなってしまうのだろうか。
 亀はトコトコと道を渡り、ただ一軒明かりを灯している喫茶店の前へと移動した。
 春駒もそれに続き、喫茶店のドアを開ける。店の中に客は二人しかいない。
 一人は女の人で、ケーキを食べながら携帯のメールを打っている。もう一人は男性で、テーブルの上のコーヒーカップを見つめてじっとしていた。
 亀は男性のほうに近づいていき、
「お待たせしました。春駒さんをお連れしましたよ」
 と声をかけた。
「あ、よろしくお願いします」
 依頼人は顔を上げて、春駒の顔をちょっとびっくりしたように見た。
 パッと見た時にはだいぶ年上に見えたのだが、顔を見ると意外と若いように思える。三十歳前後だろうか。スーツを着ている男性は、本当に歳がわかりにくい。
「では早速ですが、お話を伺いましょう」
 依頼人がぼーっとしてなかなか話を始めないので、亀が促した。
「す、すいません。えーとですね、ここのところ、ずっと同じような夢を見るんですよ」
 ちょっとおどおどして、依頼人は時々つっかえながら説明を始めた。

 何かを必死で探している夢を見るのだと言う。
 何を探しているのかは、全くわからない。だが、「早くそれを見つけなくてはならない」気持ちで一杯で、その夢を見た朝は、起きるとぐったり疲れてしまうらしい。
 その気持ちは春駒にもよくわかる。焦っている夢を見た日は、まるで一晩中かけずり回っていたような気分で起きるものだ。
「せめて、自分が何を探しているのかくらいは知りたいんですよね」
 肩を落として、依頼人はため息まじりに言う。
「その夢がどこなのか、いつのことなのか、ということはわかりませんか」
「あ、それはわかります。中学生の頃にうちの実家は引っ越しをしているんですが、それまで住んでいたところだと思うんです。風景に見覚えがあるんで」
 何が何だかわからない夢の中で、それだけは確かなことなのだろう。依頼人は嬉しそうに応えた。
「そうしますと、夢の中で何を探しているかがわかればよろしいんですね」
 亀が依頼の内容を確認すると、
「そうですね。できればそれを見つけて欲しいですけれど・・・」
 依頼人は、そう言って春駒の顔色を伺うようなそぶりを見せた。
 依頼の内容を話している間にも、この依頼人はそんな様子を見せていた。春駒の何が気になっているのだろう。
「わかりました。では、髪の毛を一本頂きましょうか」
「は?」
「いや、何でもいいんですが、春駒さんがあなたの夢に入るためには、あなたの身体の一部が必要なんですよ」
「ああ、そうなんですか」
 依頼人は戸惑いながらも髪の毛を一本引き抜き、
「これでいいですか」
 指でつまんで差し出した。春駒はそれを両手で押し頂いて、懐にしまう。
「では春駒さん、行きましょうか」
 そう言って亀が椅子から飛び降りると、
「あのー」
 依頼人が、間の抜けたような声で話しかけてきた。亀と春駒が依頼人の顔を見ると、依頼人はちょっと恥ずかしそうに、
「いや、大したことじゃないんですけど・・・意外と若いんだなぁ、と思って」
「はい?」
「夢渡りの人ってもっと年寄りなのかと思ってたから、魔法使いみたいなおばあさんが来るもんだとばかり」
 それで春駒の顔を伺っていたというわけか。
「御心配なく。春駒さんは優秀な夢渡りですから」
 亀は愛想よく応えると、尻尾を振り振り歩いていった。
「あ、じゃあ、失礼します」
 春駒も一つ頭を下げ、亀の後を追った。

   *

 店から出ると、亀はホテルオークラの方に向かって坂を上り始めた。
「ねえねえ、今回も失せもの探しみたいだけど、この前より難しそうだよ」
 この前の依頼は「石を探す」という明確な目的があったが、今回は何を探していいのかもわからないと言うではないか。
「まあ、大丈夫でしょう。行ってみれば何かわかるかもしれませんから」
 亀は相変わらずの前向きな発言を返してくる。
「本当に?」
 春駒は、そんな雲を掴むような依頼をこなす自信などない。亀は依頼人に向かって「春駒は優秀な夢渡りだ」などと言ったが、この夢渡りという仕事のやり方に、優劣などあるものかと春駒は思う。
「行く前から気をもんでも、しかたないですからね」
 亀はしらっと応え、そのままホテルオークラの中に入っていった。

 ホテルの中は薄暗く、絨毯も古びた感じがする。その古さは重厚さを醸し出すようなものではなく、むしろ廃れた侘しさを感じさせた。
 別館から本館に渡り、メインロビーのエレベータの前に着いた。
「あ、もしかして、またこのエレベータで玄亀稲荷まで直行?」
 春駒が嬉しそうに訊ねると、
「そんなに近道はできませんよ。相変わらず、面倒臭がり屋ですね」
 エレベータに乗り込みながら、亀はからかうように応えた。
「十三階に行ってください」
 亀に言われてボタンを押すと、エレベータは微かに振動しながら昇ってゆく。扉の上の到着階を示すボタンの明かりが、一つ一つ移り変わる。
 何の音もしない。こうして亀と二人だけでエレベータに乗っていると、春駒は何だか、このまま一生この箱に閉じ込められてしまうような、箱に乗ってどこか知らないところへ漂っていってしまいそうな儚い気持ちになった。

 そんな不安は杞憂だったようで、十三階に着くとちゃんと扉が開いて、亀と春駒はいきなり駅の雑踏の中に放り出された。
 よく見れば、ここはまた新宿である。自分はよほど新宿に行きたいのだろうか、忘れている用事でもあるのかと、春駒は妙な気持ちになる。
 地下道を高層ビル街の方向に向かって歩き、地下道のガードが途切れると、そこには海が広がっていた。
 どうするのかと思っていると、亀は桟橋のようなところに歩いていき、待っていた船に乗り込んでゆく。
「あ、これシーバスだ」
 シーバスは横浜港の要所をつなぐ船のバスだ。それがどうして新宿の高層ビル群の前から出ているのか、自分の夢の脈絡のなさに春駒は戸惑うばかりだ。
 シーバスは唸りをあげて波を切り、黒い夜の海を進んでいく。潮風が巻くようにして春駒の身体を包み、髪の毛が湿っぽくなった。

 現実世界のシーバスは、横浜そごうの裏手やみなとみらい、山下公園に発着所がある。
 しかし春駒の夢のシーバスは横浜そごうを通り過ぎ、そのまま小さな橋をいくつかくぐって、春駒の家の前に流れる細い川に入っていった。
 シーバスはエンジン音を緩やかに落とし、消防署の裏で停まった。
「降りますよ」
 亀はぴょんと身軽に岸に渡ったが、ゆらゆらと動く船から一歩を踏み出すのは、人間の春駒にとっては結構勇気がいる。息を止め、勢いをつけて飛び降りると、亀はとっくに先へと歩いていた。
 置いていかれないよう、急いで亀の後を追う。大きな道路を渡り、裏路地に入ると、亀が塀の上を歩いて行くのが見えた。
 いつの間にか、昼間の風景に変わっている。小春日和の暖かい日差しの中で、いつもよりくっきりとした輪郭を描く自分の影を見つめながら歩いていると、道路は田んぼのあぜ道に変わった。
 黄土色の枯れ草に混じって、ハコベの小さな葉やオドリコ草の丸い葉が見え隠れする。用水路を覗いてみると、芹の若葉が瑞々しく光っていた。
 烏の鳴き声がする。それにつられて顔を上げると、そこは玄亀横町の入り口だった。

「用意はよろしいですか」
 玄亀稲荷の前まで来て、亀は春駒に声をかけた。
「うん」
 依頼人の髪の毛を手首に結わえて、春駒は頷く。
「では、行きましょう」
 亀は玄亀稲荷の開き戸の下を潜り、春駒は両手でその扉を押し開ける。
 入った瞬間、何だか寒いような気がした。

 延々と続く赤い鳥居。
 時折風が通り抜け、鳥居の下に溜まっていた水滴が、春駒の首筋に落ちてくる。参道の両脇の笹の葉が、囁き合っているのが聞こえる。
 ここは、いつ来ても霧雨が降っている。
 雨に霞む亀の姿を見つめながら、春駒はただひたすら足を運んだ。
 やがて、ふっと身体が持ち上がり、春駒はそのまま霧雨に溶けていくような感覚を覚えた。

   ***

 荒涼とした風景が広がっていた。白く、埃っぽい地面のあちこちに、大きな岩が角を突き出している。草木一本見当たらず、生きものの気配は全くしない。
 そしてここには、何やら人工的な気配がする。山でも切り開いて、生きものという生き物を根こそぎ削り取ったような感じがする場所だ。
 
 この場所で、依頼人は這いつくばるようにしながら何かを探している。時々立ち上がっては、辺りを見回す。どうも何かを怖がっているらしい。
 しかし、何を探しているのか、何を怖がっているのかは、夢を見ている本人にはよくわかっていないようだ。
 ただ漠然と徘徊し、何かに怯えている。
―――これが、最近いつも見ている夢なのね。
 確かに、こんな夢を連日見ていたら不安にもなるだろう。何を意味する夢なのか、知りたいと思うのは当然かも知れない。
―――でも、このままじゃ埒があかないなぁ。
 依頼人と一緒になって、ここで何かに怯えながら訳もわからず探し物をしていても、何の解決にもなりそうにない。
 春駒は、依頼人の夢の時間を遡ることにした。

 いくつもの夢を辿り、さっきの風景と少しでも関係のありそうな場面を探す。 
 最初のうちは、通勤電車の中で降りられなくなる夢や小さな居酒屋でコップを倒す夢、コピーを間違えて慌てている夢など、仕事に関係のあるような場面が続く。
 そのうち、道でバイクが倒れて起こせない夢や、試験会場で真っ白の答案を前に頭を抱えている夢が出てきた。これはきっと、学生時代の夢なのだろう。
 どうもこの依頼人は、春駒が分類するところの「危機一髪」タイプらしい。いつも何かに追い立てられたり、焦っている夢ばかり見るタイプなのだろう。
 春駒としては、そういうタイプの依頼人にお邪魔すると自分も疲れるので、あまり嬉しくないのだが・・・

 そうこうしているうちに、おかしなことが起こった。また、最初の夢に戻って来たのである。
 今までに、こんなことはなかった。依頼人の希望通りの結果が得られなかったことはあっても、何の糸口も見つけられないなどということはなかった。
 春駒はもう一度夢を辿り始めたが、ある程度の時間まで遡ると、また先ほどの白っぽい地面にいる夢に戻って来てしまうのである。
 何だか馬鹿にされているような気がして、春駒はちょっと腹が立ってきた。もう一度、遡ってみる。
 しかし結果は同じであった。
―――どうしよう。これじゃあ、何しに来たのかわからないじゃない。
 埃っぽい空気の匂いが鼻につく。亀は例によって、まだ姿を見せていない。
―――もう一度、もう一度やってみて、どうしても駄目なら亀を探そう。
 大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、春駒はまた夢を遡り始めた。今度はどこまでいくと戻されてしまうのかを見極めようと、一つ一つの夢をしっかりと覚えていくことにした。

 会社で失敗する夢、寝坊する夢、試験ができない夢、自転車のチェーンが外れて困っている夢まで来て、また元の場面に戻された。
 さっきとあまり変わらない。しかし、一つ気づいたことがあった。
 自転車のチェーンが外れてしまってあたふたしている夢の中で、この依頼人は、左手に革の紐を持っていた。
―――あれはきっと、犬のリードだ。
 輪っかになっていて、その先にはまだ長い紐が続いていた。しかし肝心の犬の姿は、見ることができなかった。
―――犬を探してみよう。駄目でもともと、ってことで。
 もしかしたら、その犬の存在が何かを意味しているかも知れない。春駒は、さっき見た左手の革の紐を強く頭の中に呼び起こしながら、もう一度夢を遡り始めた。

   *

 犬が、興奮しながら手にじゃれついてくる。膝に乗って顔を舐める。
「大樹(たいき)、早く帰って来てよー」
 家の中から、女性の声が聞こえてきた。
「う〜ん」
「美樹(みき)も探して来てー」
「う〜ん」
 大樹と呼ばれたのは、どうやら依頼人らしい。美樹というのは、姉妹だろうか。持っていたリードを首輪につけながら、大樹は適当に生返事を返した。
「よしよし、今行くからな」
 大樹は犬の頭をぐしゃぐしゃと撫でてやると、リードを持って自転車に跨がった。夕方の散歩に行くらしい。
 犬はさらに喜んで、大きくジャンプをしながら腕まで舐める。大樹の中にお邪魔している春駒は、ちょっと引いた。実は、春駒は犬がちょっと苦手なのである。
 春駒は、大概の動物は好きだし、猫は大好きである。犬も嫌いではないのだが、あの動きの忙しなさと犬特有の匂いが気になって、あまり積極的に触ろうとはしない。特に小型犬の落ち着きのなさと匂いは、結構苦手なのである。
 ところが、大樹が今散歩に連れ出そうとしている犬が、よりによって春駒の苦手なタイプなのであった。

 こんな小さな犬を、自転車に乗りながら散歩させて平気なのだろうかと春駒は心配していたが、この犬はやたらと元気でよく走ったし、大樹もスピードを調節しながら走っているので大丈夫のようだ。
 と思ったら、犬は急にスピードを落としたかと思うと足を止めてしまった。
 どうするのかと思っていると、大樹は犬を抱き上げ、自転車のカゴに入れて走り始めた。
―――これ、散歩になってるの?
 疑問を感じた春駒だが、まあ、飼い方は人それぞれなので、意見を言う筋合いでもない。
 そのうちまた犬を下ろして、大樹は散歩を続けた。
「今日はこっちか?」
 犬は林に囲まれた小道に向かって走ってゆく。道ばたの草むらに頭を突っ込んでフンフン言いだしたのを見て、大樹は自転車を降り、首輪からリードを外してやった。
 用足しらしい。大樹はポケットからビニール袋を取り出すと、飼い犬の落とし物を回収した。
―――まさか、このままずっとお散歩の夢に付き合うのかなぁ・・・
 自分で狙って犬の夢を探し当てた春駒だったが、本当にこれで良かったのか、だんだんと不安になってきた。
 風景も、あの最初の夢とは似ても似つかない。もしかしたら見当違いのところに来てしまったかもしれず、このまま散歩の夢が続くなら、また違うヒントを探さなくてはいけない。
 そんなことを考えて、春駒はちょっと気を逸らしていた。

 犬は気ままに草むらを徘徊し、大樹はその後をぶらぶらとついてゆく。
「チャンク、もうそろそろ帰ろうよ」
 この犬の名はチャンクと言うようだ。ずいぶんと、洒落た名前をつけたものである。
 チャンクは大樹の呼びかけになど耳もかさず、道をどんどん奥に進んでいく。と、急に上を向いて、激しく吠え始めた。
「何だよ、どうしたんだよ」
 チャンクは身体を震わせて、うなり声をあげている。チャンクは木の梢に向かって吠えているようだ。大樹はチャンクの視線を辿って木の上を見たが、
「どうした?何もいないよ」
 そう言ってチャンクのお尻を押して先に進ませた。
 大樹には見えなかったのかもしれないが、春駒にはちらっとだけ、見えた。猫の亀が、かなりムッとした顔でチャンクのことを睨んでいる姿が。
―――あんたがいるってことは、この夢にいていいわけね?
 一方的に吠えられた亀は可哀想だが、春駒は少し、安心した。
 そう思った途端、今度は大樹が自転車を引きずりながら走り始めた。正確に言うと、チャンクがもの凄い勢いで走り始めたので、大樹が慌ててその後を追い始めたのだ。
「こら〜、チャンク、待て待て!」
 大樹の制止など全く聞く耳持たず、といったように、チャンクは小道をダッシュしていく。大樹は自転車を道の端に寄せて木に立てかけると、リードを持って同じくダッシュした。
 チャンクを追って小道を抜けると、急に視界が開けた。

   ***

―――また来ちゃった・・・
 春駒は、がっくりきてしまった。チャンクを追って大樹がやって来たのは、先ほどから散々舞い戻った、あの白っぽい地面の広がる場所だった。
 だが、もう少し風景が込み入っている。切り立った岩の壁が周りを囲み、その上には木が見える。数メートル先は崖のようになっているのか、地面が切れている。
 その先に、大きな砂利の山とサイロのような大きな容器、そしてベルトコンベアのお化けのような、細長くて四角い棒のようなものが見えた。
 さっきの場所とは微妙に違う。というより、たぶんこちらがオリジナルで、殺風景なほうの景色は、この風景の中の印象の強いものだけが強調されているのだろうと、春駒は推測した。
 チャンクは、数メートル先の地面が切れているところで、またもや激しく吠えていた。尻尾を身体の下に入れ、耳を後ろに倒している。何かに怯えているようにも見える。
「何だよ、どうした?チャンク」
 大樹はチャンクの側に寄り、崖下を覗き込んだ。

 黒いものがあった。夕暮れ時で、よく見えない。大樹はよく見ようと、少し場所を変えて覗き込んだ。
 白い、足が見えた。

   *

「あ、足だ・・・!」
 大樹は全身に鳥肌を立て、ちょっと後ずさった。しかし、恐いもの見たさだろうか、大樹はもう一度身を乗り出して覗き込んでみた。
 すると両手をついていた崖の先端が崩れ、支えを失った大樹の身体は、そのまま頭を下にしながらズルズルと滑り落ちていく。
「うわわわわ!」
 掴まることができるような出っぱりもなく、大樹はそのまま黒いものの側まで滑り落ちてしまった。
 崖の下は大きな凹みがいくつもあるようで、それぞれに水が溜まって池のようになっている。大樹が落ちてきたところにも、そのまた左右にも水たまりがあった。
 大樹の目の前に、白いふくらはぎと、それより白い靴下が、夕闇の中でぼうっと光っているように見える。
 人間の身体であることは、間違いがない。

 大樹は少し後ずさると、
「もしもし」
 蚊の鳴くような声で話しかけてみた。
 死んだ人なら気味が悪いが、もし生きている人なら、助けてあげなくてはならないだろう。大樹がそう思って声をかけているのが、春駒には感じられる。
 しかし、春駒にはわかっている。目の前に横たわるこの物体が、もう動くことはないということを。
―――早く上に上がって、誰か呼んで来ようよ。
 大樹はちょっとずつその黒いものに近づきつつある。顔を確かめるつもりだ。死人の顔など見ない方がいい、春駒はそう思うが、大樹の中にお邪魔しているこの状態では、何のアドバイスもできないし、大樹の行動を止めることもできない。
「あの、大丈夫ですか」
 大樹はもう一度声をかけると、四つん這いのまま、黒いものの頭側と思しきほうに廻り込んだ。

「み、み、みき」
 黒いものは、大樹の知った顔だった。春駒の中に、大樹の混乱した記憶が流れ込む。
 遊園地や公園、学校の体育館、そんな場所で、大樹と美樹は一緒にいる。前後する記憶の中から美樹についての情報を拾っていくと、美樹というのは、大樹の双子の姉らしいことがわかった。
 目の前の美樹は、きっと制服だろう、黒とも紺ともつかないブレザーの襟が顔を半分覆っている。そしてそのこめかみから首の方にかけて、べったりとした黒い液体が流れた跡が見えた。
 顔も首も、よく見ると手首にも、擦れたような傷がついている。美樹は、まるで何かから身を守るように、身体を丸めて転がっていた。

 それに気づいて、春駒は体中の血が逆流してしまうかのような怒りを覚えた。美樹の右の足首に、下着が引っかかっているのだ。
 赤ん坊でもあるまいに、片足だけ下着に足を突っ込んで出歩くわけはない。誰かが、この少女を襲ったに違いない。
 できれば大樹には、このことを知って欲しくないと春駒は切に思った。
「み、み・・・」
 大樹は思考がストップしてしまったようだ。動くこともできず、目を逸らすこともできず、ガタガタと震えている。
 チャンクは、相変わらず崖の上で吠え続けている。ここまでは降りて来られないようだ。誰かがチャンクの声に気づいてくれればいいのだが・・・
 ふと大樹は、美樹の頭の側に転がっている石に注意を向けた。春駒の視点も、同じようにその石に注がれる。
 石には、きっと美樹の血なのだろう、べったりと黒いものがついている。その黒いものは、変な形に掠れていた。
―――あ、触っちゃ駄目だよ!
 大樹はその石に顔を近づけると、ちょっと転がしてその掠れをよく眺めた。
 その掠れは、人の指の形をしていた。

「わ、うわあああ!!!」
 大樹は叫び声をあげ、その石を振り払った。石はごろりと転がって、左のほうにある水たまりへと落ちた。
―――大変!証拠が落ちちゃった!
 石はまだ、浅いところで留まっている。しかしゆらゆらと水が動いて、今にも水たまりの真ん中の方へと落ち込んでいきそうだ。
「春駒さん、手を伸ばしなさい!それを掴んで!」
 どこからか、亀の声が響いた。
 それと同時にザザーッと砂が崩れてくる音がして、大樹の身体は後ろから羽交い締めにされた。
「お前もわざわざ見に来たのかよ」
 振り回されて地面に押し付けられた大樹を覗き込んでいたのは、一人の男だった。
 右目の下に、涙ぼくろがある。だいぶ若いが、間違いなくあの「石を探して欲しい」と言ってきた依頼人だった。

   *

―――何でこの人がここに・・・?
 春駒は混乱している。大樹ももちろん、パニック状態だ。
「今の石、どこにやった?どこに転がした?」
 両手で大樹の首を締め上げながら、男は凄んだ。
―――探して欲しい石って、さっきの石のことだったの?!
 そういえば、ここの風景の中にあったサイロのような容器や、ベルトコンベアのお化けのような機械は、石や砂を選別したり保管したりするものだ。個々は採石場なのだと、春駒は今更ながらに気づいた。
 あの石は、殺人に使われた石だ。つまり、この男が美樹を襲い、殺した張本人ということか。
 大樹はすくんでしまって、男の質問に答えることができない。
「早く言えよ。あれがここにあると思うだけで、眠れないんだよ」
 男は大樹の身体を揺さぶって、さらに凄んだ。
「春駒さん!そいつの左の手首!」
 どこからか、亀の声が聞こえてきた。
―――左の手首?何?
 意味がわからないが、男の左手首を見てみる。
―――あ!
 この夕暮れ時にも関わらず、春駒にはしっかりと見えた。
 男の左の手首には、髪の毛が一本、巻き付いていた。

「それを取って!早く!」
 亀の声に被さるように、チャンクの唸り声が聞こえてくる。亀はチャンクの側にいて、威嚇されているのかもしれない。
―――取って、って言ったって、どうすればいい?
 戸惑っていると、亀がフーフー言っているのが聞こえてきた。チャンクとケンカを始めたのだろうか。
「早く言わねえと、絞め殺すぞ、コラ」
 男は男で、大樹の喉を締め上げてくる。春駒は男の手首に巻かれてある髪の毛をじっと見つめると、手を伸ばしていった。
 
 大樹の手が、男の手首に伸びる。春駒が思うように、大樹の指が髪の毛を探り当てる。春駒にとっては、初めての経験だった。
 大樹の指が髪の毛を掴み、思い切り引っ張った。髪の毛はプツンと切れ、男の手首から外れた。
 男の身体から一瞬、力が抜けた。その隙に大樹は、男の身体の下から這いずり出て、後ずさった。
 男がゆらゆらと立ち上がる。その姿に重なるように、陽炎のようなものが揺れている。
 上から砂が崩れてきて、それと一緒に茶色いものが落ちてきた。
「諦めなさい」
 上から落ちてきたのは、亀だった。
「あまり長い時間、拠り所を身体から離すのはいいことじゃないですよ」
「だったら、返してもらう」
 男の声に重なるように、女の声が響いた。
「そうはいきません。あなたはその人から抜けるしかない」
「返せ!」
 そう言って男とその周りの陽炎が、こちらに向かって大きく踏み出した。亀が大樹を守るように、間に割り込む。
 するとまた砂が崩れてきて、今度はチャンクが足を踏ん張りながら滑り落ちてきた。
 チャンクは亀の存在を無視して、男と対峙した。
「チャ、チャンク!」
 チャンクは身を低くして、牙を剥きながら身構えた。身体から振り絞るようなうなり声をあげて、全身で威嚇する。
 飼い主を、守ろうとしている。その剣幕に、男と陽炎は一瞬立ち止まった。

「他の夢渡りの仕事にケチをつけるつもりはさらさらありませんが、わたしは自分の夢渡りの仕事が邪魔されるのを好みません」
 男と陽炎がチャンクの出現に気をとられた隙に、亀は大樹の手から髪の毛を取り上げて後ろに飛び退き、髪の毛を前足で地面に押さえつけた。
「自ら去るか、わたしが手を下すか。どちらを選びますか」
 男と陽炎は、躊躇している。亀が髪の毛を持っていることが、どうやら彼らにとっては拙いことらしい。
「さあ、もう時間がないですよ。あなたが決断しないなら、わたしはこれを処分するだけです」
 チャンクが、また吠えた。陽炎が男から少し離れ、亀に向かって手を差し伸べてきた。
「ま、待って」
 陽炎が揺れながら、女の顔形を作る。春駒よりもずっと年上に見えた。
「わかったわ。帰るから、それを返して頂戴」
 そう言いながら、陽炎は男と一緒に近づいてきた。そしてフッと嗤ったかと思うと、大樹に向かって飛びかかった。

「さあ、早くそれをこっちに寄越せ!このまま締め上げれば、あんたの大事な夢渡りも一緒に死ぬよ」
 大樹の首に腕を廻し、強く締め上げながら男と陽炎は亀を嘲笑った。
 夢の中で首を絞めて、実際に死ぬのだろうか。大樹も自分も死ぬのだろうか。春駒はそんな疑問を抱きながらも、大樹と一緒になってもがいた。
「どんなやり方をしてきたのか知りませんが、ずいぶんと乱暴な夢渡りを育てあげたものですね」
 亀は、男と陽炎にではなく、崖の上の方に話しかけた。崖の上にちらっと二つ、黄色い光が見えたかと思うと、それはすぐに消えた。
「御遣いはあなたを捨てたようです。どうもあなたは、御遣いにもあまり好かれてはいなかったようだ」
 亀はそう呟くと、前足で押さえていた髪の毛を口にくわえた。
「か、返して!」
「石はどこだ!」
 男と陽炎が、完全に分かれた。陽炎が大樹の背後から、亀に向かって身を乗り出した。
 亀はくわえていた髪の毛を、ペロリと食べてしまった。
―――食べちゃった!
 春駒は驚いて、亀と陽炎を見やった。
 陽炎は、今一度女の姿を形作ると、薄く大きく広がった。
「おおお・・・」
 悲しげなうめき声を上げながら、女の陽炎は夕闇の中に溶けていく。
 そして男も、急に腕から力を抜くと、
「石を・・・石・・・」
 そう呟きながら、地面に吸い込まれるように消えていった。大樹は尻餅をついて、その場にへたり込んだ。
 石は、もう水たまりの中に落ち込んで、見えなくなっていた。

 「大樹さん、家に帰って、お母さんを呼んできましょう」
 亀が優しく大樹に声をかけた。チャンクが大樹に擦り寄ってきて、鼻を鳴らして顔を舐める。
 春駒も、もう、チャンクの匂いは気にならなかった。そうやって飼い主を労るチャンクが、愛おしく感じられた。

   ***

 亀と春駒は、重い足取りで待ち合わせ場所に向かっていた。
 あの後、春駒は震える大樹にお邪魔したまま、大樹の家まで送り届けてから抜け出て帰ってきた。
 美樹が砕石場に倒れていることを知らされた大樹の母親は、台所仕事もそのままに、慌てて玄関を駆け出していった。
 春駒と亀が見ていたのは、そこまでである。

「大樹さんは、今回のこと覚えていなかったってことだよね」
 春駒は、誰に話しかけるでもなく、独り言のように呟いた。もしちゃんと覚えていれば、なぜ自分があんな夢を見るのか、何を探しているのかをわかっていたはずである。
 しかし大樹は、自分の夢が何を意味しているのかさっぱりわかっていない様子だった。
「そうですね。あまりにも衝撃が大きかったので、記憶の容れ物の奥に、ずっとしまい込まれていたのでしょう」
「でも、何で今頃になって夢に見だしたんだろうか」
「たぶん、あの男が石を探し始めたからでしょうね。あの男が見つける前に、どうにかしようと思ったのでしょう」
「う〜ん、じゃあ、何であの男は、今になってあの石を探そうなんて思ったんだろう」
 あの男が素知らぬ顔で依頼をしてきたところをみると、罪には問われなかったのだろうか。ずいぶんと若く見えたから、もしかしたらあの事件の当時は未成年で、あの男の犯行だとわかっても起訴されなかったのかもしれないが。
「これは半分以上わたしの推測ですから、事実は全く違うかもしれませんがね」
 亀はやや遠慮がちに、自分の考えを述べ始めた。
「あの男が美樹さんを殺したことは、罪には問われなかったんですよ」
「それは推測?それとも事実?」
 春駒が口を挟むと、亀は鼻の頭にしわを寄せ、渋い顔で応える。
「あの男と会ったとき、背後に美樹さんがいたんですよ」
「はあ?」
「春駒さんには見えなかったんでしょうが、若い女の子があの男の背中にべったり貼り付いて、恨みと憎しみを纏わりつかせていたのがわたしには見えたんです」
「うわあ・・・」
 そんなものが見えなくて幸いだったと、春駒は思った。そんなものを見てしまったら、夜中にトイレに行けなくなりそうだ。
「その子が死んでいるのもわかりましたから、当然、この男が殺したんだと思った訳です。しかも女の子の様子から、こいつはきっと逃げおおせて、その罪を償ってはいないだろうと。そんな男の依頼を、あなたに引き受けさせたくはなかった」
 だからあの時、亀はおかしな態度をとって、最終的に依頼を断ったということか。
「だから、半分推測、半分事実ですよ」
「はあ」
 暗に、黙って聞いていろと言っているのだろう。春駒は、余計な質問をしないように口をつぐんだ。
「で、あの男、十五年くらい前の話だと言っていたでしょう?」
「そうだっけ?」
 春駒はもう、そんな細かい話はすっかり忘れている。
「言っていたんですよ。十五年といえば、この国の法律で殺人の時効が成立する年月じゃないですか。だから今になって、あの石のことが気になってきたんでしょう。あの石には、あの男の手の跡がべったり付いていましたからね」
 しかし、あの石は水の中に沈んでしまっていた。もし発見されていたとしても、物証となるかどうか怪しいものではないか。
 そんな春駒の疑問を先取りしてか、亀は、
「たとえ立件の証拠にならなくとも、自分の犯罪の証が未だそこに存在しているとなると、気になると思いますがね」
「う〜ん、確かに・・・」
 しかし、犯行後の現場にチャンクと大樹が現れ、大樹が石を動かしてしまったことで、あの男には石がどこにいったかわからなくなってしまった、というわけだ。
「実際には、あの男は大樹さんが現れて美樹さんの姿を発見してしまったのを見て、そこから立ち去ったんでしょうね。大樹さんが家に戻ってそのことを誰かに話せば、すぐに大騒ぎになる。そうなったらもう、あの石を探し出して処分したくても、近づくことはできない」
 そして十五年間、素知らぬ振りを通して生きてきたのか。春駒は何だか無性に腹が立って、
「今度アイツを見かけたら、夢に入って悪夢浸けにしてやる!」
 と息巻いた。すると、
「ああ、春駒さん、そういうことは言っちゃいけませんね。そういうことを考えるようになると、あの夢渡りのようになってしまうんですよ」
 亀は春駒を振り向いてたしなめた。

「あ、そういえば・・・」
 あの男には、別の夢渡りがお邪魔していた。陽炎のように実体を持たず、ただ男の手首に巻かれていた髪の毛が、夢渡りがそこにいることを物語っていた。
「何なのよ、あいつ」
 再三、二人掛かりで襲いかかって来られたので、春駒はあの夢渡りにもむかっ腹を立てていた。
「あの人は・・・ずっと夢を渡っている間に、何か大きな勘違いをしてしまったのでしょう」
 亀は、残念そうな口調で応えた。
「勘違い?何を?」
「ほら、ペットと飼い主の関係でも、立場が逆転することがあるでしょう?最初は飼い主がきちんと主としての立場だったのに、いつの間にかペットの方が主導権を握っている」
「あー、ありますなぁ。勝手にご飯食べちゃったりとかね」
「それはまた別でしょう?春駒さんが起きて来ないんだから」
「たまにはゆっくり寝たいのよ」
「そんなことは知りませんよ。とにかく、あの夢渡りと、夢渡りについていた御遣いの立場は、わたしと春駒さんとの関係とは全く違うようでした」
 そういえば、崖の上に光るものを見た。あれが御遣いだったのだろうか。
 それにしては、自分の夢渡りの一大事にずいぶん遠くにいて、妙だと思っていたのである。
「あの夢渡りは、いつしか自分が他人様の夢を、ひいては他人様の人生すらも左右できると思うようになっていたのでしょうね。他人様の夢を思うように動かすことが、面白くてしかたなかったのでしょう。だから、自分と同じような価値観を持つ人間を好んで選ぶようになったんだと思います」
「同じような価値観、って?」
「他人の人生をいじくり回したり、平気で奪ったりするような人間ですよ。ほら、この前、自分の息子と一緒にどこかへ逃げようとしていた女性(ひと)がいたでしょう?あの女性に入れ知恵をしたのも、あの夢渡りですよ」
「ええ?!」
 春駒は、びっくりした。あの件に同業者が絡んでいることは亀が教えてくれたから知っているが、今回のことも同じ夢渡りが関係していたとは、意外であった。
「そんなにこの世界、狭いの?」
「夢渡りなんてことが、そうたくさんの人にできると思いますか?これは特殊技能ですからね、そのうち同業者と会うだろうとは思っていましたけれど、会った相手が悪かった」
 亀はちょっと話し疲れたのか、その場に座って顔を洗い始めた。

「あの夢渡りの御遣いは、もう、彼女に言うことを聞かせることができなかったようですね。だから彼女は勝手気ままに依頼を受けて、時には他人様の夢を自分の好きなようにいじくって、それを楽しんでいたんですよ」
「好きなようにいじくるなんてこと、できるの?」
 そんなことができるとは、考えてもみなかった。いつも他人様の夢に入っては「そんなことはしない方がいいのに」などと思ってばかりで、春駒自身がお邪魔している夢の中身をどうこうしようなどとは思いつきもしなかった。
「やろうと思えばね。今回だって、大樹さんの手を動かすことはできたでしょう?」
 そう言われてみれば、確かに自分が強く思うことによって、大樹の手を動かして、あの男の手首から髪の毛を奪うことができた。
 しかし、それがどうした、という気もする。所詮は他人様の夢、醒めればそれぞれに、現実世界の喧噪が待ち構えているのだ。他人の夢をいじくったところで面白いとも思わないし、それで何かが変わってしまったとしたら、その責任をとることはできないじゃないか、春駒はそんな風に思った。
「そういう春駒さんだから、わたしは側にいて安心できるんですよ」
 春駒の心を見透かしたように、亀は言った。
「さあ、最後の仕上げに行きますよ」
 亀は立ち上がると、待ち合わせの喫茶店に向かって歩き始めた。春駒も、気を引き締めて大きく一歩を踏み出した。

   *

 大樹は、亀と春駒を見ると、やや悲しげに微笑みながら会釈をした。ここは、大樹に依頼を受けたのと同じ、虎ノ門の喫茶店である。
 大樹が美樹の死を記憶の奥に封じ込めている以上、下手に喋って、せっかく封印してある辛い記憶を穿りかえすようなことになっては困る。
 何をどう喋ったらいいか、春駒は考えあぐねていた。

「夢をですね、見ましたよ」
 先に口を開いたのは、大樹の方だった。
「夢、ですか」
「ええ。忘れていたことを、思い出しました」
 亀と春駒は、思わず顔を見合わせた。大樹は涙を浮かべながら、無理に笑い顔をつくって話を続ける。
「信じては貰えないかもしれませんが、本当に忘れていました。酷い兄弟だと思われてもしかたがないですね」
 十五年間、ずっとしまい込んでいた記憶が、あの男の出現と春駒がお邪魔したことによって、引きずり出されたのだろう。
 むしろ、春駒が夢を辿ったことの方が、影響が大きかったに違いない。春駒と共に自分の夢を辿り、すべてを見たのだ。
「猫のあなたが果敢にでっかい男に向かっているのを、すごいなあと思いましたよ」
 大樹は、春駒がお邪魔していた夢を明晰夢として覚えているらしい。
「でも・・・あの夢は、僕の願望が混じっちゃってたみたいです」
「願望、ですか」
 大樹はテーブルの上の紙ナプキンを折り曲げながら、
「思い出したんです。実際は・・・僕はあの場にチャンクを残して、家に戻ってしまった。そうしたら、そしたらもう、チャンクは戻って来なかった。どこかに行ってしまって、見つからなかった」
 そう言って震える大樹の指は、折り曲げていた紙ナプキンをくしゃくしゃに丸めてしまった。その紙ナプキンの縮こまって捩じれている様が、まるで今の大樹の心臓の形のように、春駒には見えた。
 紙ナプキンを握りしめているその指が、あの時自分を助けてくれたのだということも、ぼんやりと思い出した。
「だから、チャンクにもう一度逢えてよかったです」
 大樹はすすり泣きながら、依頼とは全く関係のないことを感謝した。

「この夢、どうしますか」
 亀が、優しく聞いた。亀にとっては犬は宿敵だが、チャンクのことを悔やんで涙を流す大樹を見て、いい人なんだと感じたのだろう。
「春駒さんが夢を持ち去ることで、あなたがすべてを忘れることもできます」
 亀の提案に、大樹は鼻をすすり上げながら首を横に振った。
「い、いえ・・・ずっと、ずっと忘れてたから・・・だから、もう忘れません・・・忘れてて、ごめんなさいを言いたい・・・」
 そう言って大樹は、人目も憚らず泣き出した。
 双子の姉妹だった美樹のことも、可愛がっていたチャンクのことも、十五年もの間思い出さずにいたことが、自責の念となって大樹を苦しめているのだろう。
「あなたのせいではありませんよ。そんなに自分を責めないことです」
 亀はテーブルの上に飛び乗ると、大樹の手の甲に落ちる涙を舐めてやった。
「どうしても苦しくなったら、またご依頼ください。何か手助けができるかもしれませんから」
 すべてを忘れることよりも、忘れずに苦しみを受け止めるほうを選んだ大樹のために、いつでも役に立ってやりたいと亀も春駒も思った。
 そして二人は、大樹をその場に残して店を出た。

   *

「チャンクは、どこに行ったんだろうね」
 散歩している大きな犬を見ながら、春駒は言った。もうすぐ夜明けだ。ビルの間に吹く風は、肌を切るように冷たい。
 春駒は襟元をかき合わせて震えた。
「・・・すべてがわかるより、わからないまま、希望をもっていたほうがいい時もありますから」
 亀も冷たい風に身をすくめながら、謎めいた答えを返した。何か知っているのかもしれない。でも、もう春駒は聞き返さなかった。亀の言う通り、何もかも知ってしまっては、希望を持つ余地がなくなってしまう。
 それがたとえ、儚い希望だったとしても。
「もしかしたら誰かに拾われて、もっと美味しいもの食べて、幸せかもしれないもんね」
「そう、そう思うことにしましょう」
「亀、お腹空いてる?」
 春駒はそう言って亀を抱き上げた。
「空いてます。起きたら、鰹節もサービスしてくださいね」
「この贅沢もの!」
 春駒は、亀の首筋に鼻をつけて暖をとった。猫の身体はふかふかして、まるで羽根布団のようだ。
「たまには、サービスしようかな」
 そのまま春駒は、亀の背中に吸い込まれるようにして眠りについた。

   ***

 寝ぼけ眼で新聞を取りにいき、新聞をもったまま、再び布団の中に潜り込んだ。今朝は、やけに冷え込んでいる。
 新聞の見出しには、最近起きた殺人事件の容疑者逮捕の文字が躍っていた。
「やっと捕まったんだ」
 布団の中から手を伸ばして、テレビのリモコンを探し当てる。スイッチを入れ、ニュース番組にチャンネルを合わせると、ちょうどそのニュースが報道されていた。
 容疑者が連行される場面が映し出されている。
「亀!亀!ちょっと見て!」
 驚きのあまり、布団をはねのけて起き上がり、その勢いで転がった亀を抱きかかえ、テレビに見入る。
「ねえ、こいつ、こいつだよねぇ!」
 連行される男の顔は、まぎれもなく、あの男だった。涙ぼくろも、ちゃんとある。
「亀・・・あいつ、逮捕されたよ」
 これがきっかけで、過去の犯罪も暴かれることになるかもしれない。そうしたら、大樹の心も、被害者の美樹も、少しは安らぐことができるかもしれない。
 
 今の亀はただの猫で、何を言っても言葉を返してはくれない。だが、きっと亀も同じように思ってくれるだろう。
「鰹節、あげようか」
 亀は腕の中で、ゆっくりと伸びをした。

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2005年11月 3日 (木)

冥界訪問 第四話

「冥界訪問 第四話」 藤かおり

注:第一話から第三話までは「鬼愛」に組み込んで公開されました。主人公の春駒は「夢渡り」であり、夢を媒介として死者の世界にまで旅することができます。春駒が現実世界で飼っている猫の名前は「亀」といい、それは、横浜のみなとみらいに近い岩亀稲荷のそばで拾ってきたのが理由です。岩亀稲荷は岩亀楼という明治時代の遊廓と深く関係しています。亀は、岩亀稲荷のお使いらしく、夢の世界では人の言葉を話し、春駒を支え導く存在なのです。


 頭を抱えたくなるような依頼だった。
 依頼人の話を聞き終わった春駒は、依頼人が立ち去った後も、そのまま駅のベンチに座り込んでいた。
「わたしに何ができるっていうの?」
 右手の親指の爪を噛み噛み、春駒は亀に恨み言を垂れた。
「何にもできないかも知れませんがね。まあ、その時はしかたがないですよ」
「しかたがない、で済めばいいけど・・・そういう問題じゃないんじゃない?」
「春駒さんが責任を感じることではないですよ」
「それはそうなんだけど」
 はっきりと断ればよかったと、春駒は後悔していた。

 半年以上、意識をなくしたままの息子を夢の中で探して、できれば目を覚まさせて欲しい。
 これが今回の依頼の内容だった。
 春駒の家の近く、戸部という京急の駅のホームで依頼人と落ちあい、そのまま駅のベンチで話を聞いた。
 依頼人の息子は二十二歳。半年前、失恋を理由に自殺未遂を図り、そのまま意識不明の状態が続いているのだと言う。
「時折、夢に出てくるんですよ」
 依頼人は、涙ながらに春駒に訴えた。
「名前を呼ぶと、振り向くんです。でも、私には気づかない。そしてそのまま、連れ去られてしまうんですよ」
「連れ去られる、と言いますと?」
 幼子でもあるまいに、妙な物言いだと思って春駒は聞きかえした。
「髪が長いので女だと思うんです・・・その女が、博文(ひろふみ)の手を引いてどこかへ連れて行ってしまうんです」
 息子の名前は、博文と言うらしい。
「その女の人というのは、失恋したお相手ではない?」
「ええ・・・何と言うか、もっと、博文よりも年上の女のように感じるんです」

 「では―――」
 博文と付き合っていたのはもっと若い娘だったのか、と聞こうとしたが、亀が太ももの辺りを引っ掻いたので、春駒は口をつぐんだ。
(変なこと、質問しないように)
 亀が目でたしなめ、そのまま後を引き継いだ。
「では、春駒さんに行ってもらって何をしましょうか」
「できれば、あの子を連れ戻して欲しいんです」
「連れ戻すとは」
「意識を取り戻させてくれませんか」
「そ、それは難しいと思います!」
 春駒は思わず、声を上げた。それは医者か何かの領分で、夢渡りの領分ではない。
「ではせめて、私のほうを向かせてください。私の顔を見れば、きっとあの子は帰ってきてくれると思うんです」
「・・・」
 それはどうだろうと、春駒は思う。生きるのが辛くて死を望み、現在も本人が望んで夢の世界に留まっているのだから、母親の顔を見たくらいで気が変わるとは思えないのだが。
「お願いします、もう、他に頼るところはないんです」
 依頼人はガバッと立ち上がったかと思うと、駅のホームに土下座した。
「や、やめてください」
 人から土下座されるのも、それを駅のホームでやられるのも恥ずかしい。周りの人がチラチラとこちらの様子を伺っているのを全身に感じて、春駒は逃げ出してしまいたくなった。
「何とか努力はしますから」
 そう言って何とか依頼人をベンチに座らせると、依頼人は
「お願いします、お願いします」
 そう何度も繰り返しては、春駒の手を握りしめた。

   *

「何か、嵌められたって気がしないでもない・・・」
 不本意な依頼の受け方をしてしまい、春駒は機嫌が悪い。春駒がどう断っても、あの依頼人は、春駒がうんと言うまで土下座し続けていたに違いなく、そこにつけ込まれたかのような気分である。
「駄目なら駄目で、ごめんなさいと言えばいいんですから。深く考えないことですよ。やるだけやりましょう」
 亀は右手で顔を洗いながら、気楽な調子で言う。
「あんたって、ポジティブシンキングなのね」
 春駒のほうは、今から謝る場面を想像して、いささか憂鬱になっているというのに。
「もしかしたら、巧くいくかもしれないでしょう?」
「いくわけないよ!」
「一つお忘れのようですが、巧くいこうがいかなかろうが、春駒さんには事実を確かめることはできないんですよ」
「う」
 それはそうなのだ。現実世界での結果がどうなったかということは、夢の中でしか依頼人と接触を持たない春駒には、確かめようがないことなのである。
「所詮は夢の中、せめて夢の中では希望を持たせてあげてもいいんじゃないですか」
 今度は左手で念入りに顔を洗いながら、亀は付け加えた。
「でも、それじゃあ、夢から醒めたらもっと辛い」
 夢という温かい湯船が心地良ければ心地良いほど、現実世界は身を切る冷たい風となる。
「博文さんという方も、それがわかっているから帰らないのかも知れないですけどね」
 そうなのかも知れない。
 なのに、そこから無理に追い出してしまうのはどうなのか、それが本当に母と子の幸せにつながるのかどうか、春駒は疑問を感じているのであるが。
「そこから先は、夢渡りの関知するところではないですよ」
 依頼されたことを淡々とこなしましょう、顔を洗い終わった亀は、そう言って大きく伸びをすると、ぴょんとベンチから飛び降りた。
「ビジネスライクだね、亀は・・・」
 春駒は一つため息をつくと、亀に続いて立ち上がり、改札への階段を下りた。

   ***

 北風が冷たい。ビルとビルの境目の日なたを、浮き島を渡り歩くようにして、春駒と亀は玄亀横町へと向かう。
 現実世界では十分もかからないのに、なぜか今日はなかなか辿り着かない。桜木町のほうへ向かって歩いているはずなのに、どういうわけか、横浜駅の西口へ出てしまう。
「あれ?またモアーズだ」
 幹線道路へ出るはずの階段を上がると、また駅前のデパートの横へ戻っていた。
「春駒さん、気乗りがしないんでしょう?」
 亀が、からかうような口調で話しかけてくる。
「そんなことはないけど・・・どっちかと言うと、早く終わらせたい気分なんですけど」
「でも、春駒さんの夢は、玄亀横町に近づきたくないみたいですね」
「知らないよ、わざとじゃないもの」
「じゃあ、こっちに行きますよ」
 亀はおもむろに春駒の方に向き直ると、タクシー乗り場をいきなり突っ切り始めた。気の荒いタクシー運転手がクラクションを鳴らす。
 肩をすくめながら亀の後を追いかけると、亀は駅前の大きなホテルのエントランスに入っていった。
「どこに行くの?」
「玄亀横町へ」
 亀は振り向きもせずに応えると、尻尾をピンと起てながら、どんどん歩いてゆく。猫と連れ立って歩いている春駒を誰も見とがめることがないのが、いかにも夢らしい。
 エレベータホールまで来て、亀は足を止めた。
「上を押してください」
 言われるがままにボタンを押すと、エレベータの扉はすぐに開いた。

 エレベータに乗り込むと、なぜか外が見えるようにガラス張りになっている。現実世界では、このホテルのエレベータは外を見ることができない。別の建物のエレベータの記憶が、そっくり使われているのだろう。薄曇りの空と、鉛色の海が見える。海面を、貨物船の軌跡が弧を描いて切り取ってゆく。
 エレベータは二十三階で止まった。扉が開くと、そこはもう、玄亀横町だった。
「便利だね、これ。次もこれで行こうよ」
「どうして春駒さんは、楽しようとばかり考えるんですかね」
「人間だから」
 軽口を叩いてみるが、春駒は一向に気が乗らない。
「あ〜、本当に行くのか・・・」
 玄亀稲荷の開き戸の前で足を止めた春駒は、大きなため息をついた。
「まだそんなことを・・・ほら、頂いた髪の毛を出して」
 亀に急かされ、春駒は、のろのろと懐から依頼人の髪の毛を取り出した。左の手首に巻き付けてみると、結ぶには長さがギリギリだ。
「取れないかな、大丈夫かな」
「そんな言い訳は無用ですよ」
 春駒の腹の底を見透かしたように、亀は耳を後ろに倒してきつい口調で言った。春駒の行動が鈍いので、イライラしてきたらしい。尻尾を左右に振りまくっている。
「はいはい、行きますよ」
 春駒は大きく深呼吸すると、玄亀稲荷の開き戸を両手で押し開けた。

 薄暗い。
 石畳は濡れて、気をつけないと足を滑らしそうだ。

 立ち並ぶ赤い鳥居の両側には、長く放って置かれた白木のような色をした笹の葉が、霧雨に重く濡れている。
―――どうして、いつもここには霧雨が降っているのだろう。
 そんなことを思いながら、先を行く亀の尻尾を見つめて歩く。
 やがて視点が浮き上がるような感覚を覚え、春駒は明るい光の中へと吸い込まれていった。

   *

 忙しなくかぎ針を動かして、編み物をしていた。小さなケープのようなものを編んでいるようだ。
 情況が掴めなくて、春駒は一瞬戸惑ったが、お腹の辺りを見て納得がいった。これはたぶん、依頼人がまだ息子を腹に宿している頃の夢なのだ。
 時折、お腹をゆっくりと撫で回す。急にお腹の中が「ボコン」と動いて、春駒はびっくりした。
「お返事してくれたのね、いい子、いい子」
 春駒がお邪魔している人物は、そう言って幸せな気分に浸っている。
―――赤ちゃんができるって、そんなに幸せなことなんだ。
 結婚も妊娠もしたことのない春駒には、よくわからない気持ちだ。が、悪い気分ではない。
 自分の母親も、春駒をお腹に入れているときは、こんな気持ちだったのだろうか。そう思っていると、依頼人はゆっくりと立ち上がり、部屋のドアを開けた。

 ドアを抜けると、場面は一転した。
 いくつもベッドが並んだ大きな部屋にいて、依頼人はベッドの端に両手をついて、誰かに腰をさすってもらっている。
「由美子、少し横になりなさい」
 そう声をかけられ、依頼人はヨロヨロとベッドに横たわった。依頼人の名前は、ゆみこと言うらしい。
 数分ウトウトしていたかと思うと、急に腰の辺りを思い切り殴られているような感覚が襲ってきた。
 いてもたってもいられない。痛みというより、衝撃だ。由美子は身体を小さく丸め、震えながらうめき声を上げた。お邪魔している春駒にも、同じ苦しみが襲う。
「ほらほら、息を詰めちゃ駄目よ、大きく息を吐いて」
 さっきと同じように、誰かが腰をさすって話しかける。だが、息を吐けと言われても、身体のほうは力を入れたくてたまらないのだ。
 やがてその苦しさが、波が引くように消えていく。これが噂に聞く陣痛かと、春駒は恨めしい思いで合点した。
 何故、他人様の夢に来てこんな目に遭わなくてはならないのか。自分の意思で妊娠したならまだしも、夢渡りをしていて、陣痛に耐えなくてはならないとは。
 さっきから腰をさすっているのは、由美子の母親のようだ。ベッドの上にあるコードの先を押して、何か喋っている。
 ほどなくして、ベッドの横に「白いもの」が来た。
「橋本さ〜ん、破水しちゃいましたからね、分娩室に行きますよ」
 そう言われてお尻の辺りに気をやると、確かに太ももの間が濡れている。
 「白いもの」はそう言って由美子の脇の下に手を差し込み、半ば強制的に起き上がらせた。この「白いもの」は、看護士のようである。

 分娩室とやらに行く間にも、陣痛はやってきた。
―――いっそ、死にたい・・・
 由美子と一緒になって出産に臨んでいる春駒は、本来の目的のことなどすっかり忘れ,ただ事が終わるのを絶望的な気分で待ち続けた。

   ***

 いつの間にか、小さな子供と手をつないでいた。
 肝心のクライマックスである出産の場面はすっぽ抜けて、すでに子供は一人歩きをしている。
 危ういバランスでよたよたと歩く幼子の手をしっかりと握った由美子は、何とも幸せそうな気持ちで我が子の様子を見つめていた。この子が、博文なのだろう。
―――あんな目に遭わせておいて、感動の出産シーンはカットなの?
 春駒は、ちょっとむくれている。

 由美子の夢は目まぐるしく変化した。高熱を出して、痙攣している博文を抱きかかえて救急病院へと駆け込む冬の夜、父親とサッカーボールを蹴って遊ぶ夏休み、飼い犬の散歩の途中で転び、骨折してギプスをはめた博文を泣きながら抱く由美子。大学受験の前夜にも熱を出して両親をやきもきさせたかと思うと、博文はまたハイハイをする赤ん坊に戻る。
 現実世界の博文はもう成人しているはずなのに、由美子の夢の中に登場する博文の姿は,ほとんどが小さい頃のものばかりだ。子供というものは、母親にとってはいつまでたっても子供だ、というような話を聞いたことがあるが、由美子の夢はまさに、博文の幼い面影を追い続けている。
 こうやって愛おしんで育てた息子が自ら命を絶とうとしたという事実を、由美子はどう受け止めたのだろうか。恐らく、死を選んだ息子の想いよりも、息子に死を選ばせるきっかけとなった女の存在を責めたことだろう。

 亀はどうしているのかというと、きっとこの家には犬がいるからだろう、全く姿を見せない。
―――まあ、そのうち大事な場面で現れてくれるよね。
 まさか、犬が嫌だと言って逃げ出すわけでもないだろう、春駒はそう考えて、気にしない事にした。
 博文は大学に進学するのと同時に、一人暮らしを始めた。そして幾ばくも経たないうちに同棲を始め、そのことが由美子を苦しめていたようだ。
 由美子は、どちらかと言うと引っ込み思案だった博文が、女性と何らかの関係を持つということをどうしても受け入れることができなかった。
―――お年頃なんだし、彼女の一人や二人、いたって不思議じゃないのに。
 春駒はそう思うのだが、由美子にとっては、可愛い子供だった博文が誰かに「男性」として扱われることに我慢がならないようだ。肉体関係はおろか、女性が近づくこと自体に嫌悪感を抱いている。

 博文が一人暮らしを始めた当初から、由美子は合鍵を持っていたらしい。博文に気づかれないよう、何度か勝手に入り込んでは引き出しを漁ってみたり、郵便物の宛名をチェックしたりと、かなり偏執狂的な行動をとっていた。
 博文が同棲を始める前から、由美子は女の存在を嗅ぎ付けていた。だがさすがにそのことを博文に問い質すことはせず、同棲が始まってから、由美子はいきなり強硬手段に出た。
 ある日、合鍵を持って博文の部屋へ入り、そこにいた同棲相手の女性をつかまえて激しくなじったのだ。
「悪いけど、一刻も早く荷物をまとめて出て行ってちょうだい」
 家賃を払っているのはこちらのほうなのだから、お前のようなどこの馬の骨とも知れない女がここに住む権利などない、男にぶら下がる汚らわしい女だ、由美子はそう言って封筒に入った金を突き出した。
 博文がいなくて同棲相手だけがいそうな時間を見計らって訪問し、自分の存在を隠したまま、同棲を解消させようと目論んだのだ。
―――この女(ひと)、怖い。
 いくら息子が可愛いからと言って、その恋愛にまで口を出そうとする由美子の心が、春駒にはどうしても理解できない。しかし由美子の中ではそうするとこが当然であり、むしろ博文を守っていると信じて疑わない。
 これが、同棲相手が人妻であるとか、金銭目的なのが明白だったりすれば春駒だって納得もできるが、彼女は博文と同じくらいの年頃で、どうやら学生ではなく、働いているようなのだ。
 由美子はさらに、善くない手段を使って追い打ちをかけた。
「面と向かって別れたいと言うのが、あの子は優しいから辛いのよ。だから私が代わりに言いに来たのよ」
 これは、とんでもない大嘘なのだ。由美子にお邪魔している春駒には「嘘をついている自覚」がひしひしと伝わってくるので、それがわかる。
 同棲相手の女性は、由美子が踏み込んできたことにも驚いていたが、この発言にはもの凄いショックを受けたようだ。
―――信じちゃ駄目よ、こんな嘘!
 春駒はそう伝えてやりたいが、何もできない。彼女が由美子の言葉などに惑わされないことを祈るしかないが・・・

 彼女は、由美子から出されたお金は突き返した。しかし、彼女の中で何かが起きていることは間違いがない。真っ青な顔で由美子を見つめ、握りしめた手は震えている。
 由美子が心の中で「してやったり」と感じているのが伝わってきて、春駒は何ともやりきれない気持ちになった。
―――何でわたし、こんな女にお邪魔してるんだろう。
 博文がお腹にいるときからの夢を共有してきただけに、春駒は由美子の心のありようが悲しかった。我が子の成長を受け入れられず、かえって我が子を苦しめるような行動をとってしまう・・・そして、それが善くないことだとは気づかない。
 自分も母親になったら、気づかないうちにこんな風になってしまうものなのだろうか。それはあまりにも悲しいと、そんな母親にはなりたくないと春駒は思う。

   *

 由美子の行動は、由美子が期待していた以上の結果を引き起こすことになった。同棲は解消されたものの、恐らくそれが原因だったのだろう、最愛の息子である博文は自殺を図った。
 目撃者の証言によると、ある日博文は往来の激しい国道にふらふらと歩き出た。緩い上り坂になっていたその道でスピードを出していたトラックが、突然道路の真ん中に出現した博文を避けきれず、引っ掛けるようにして跳ね飛ばしたのだそうである。

 それが自殺なのかそうでないのかは本人しか知らないことだが、博文の友人達は口を揃えて「自殺するつもりだったのだろう」と家族に告げた。
 同棲していた女性が家を出て行った日から博文は大学の授業も欠席し、友人が電話をしても出ず、心配した何人かで家を訪ねてみると、博文はカーテンを閉め切った部屋の中でぼんやりと座っていたという。
 どうしたのかと訊ねるとただひと言、
「終わった」
 とだけ応え、後は何ひとつ語らなかった。
 ただ部屋の様子から、同棲相手が出て行ったことは伺い知れたらしい。そこで、博文と同棲していた女性を知る者が直接彼女に問い質すと、彼女のほうも
「もう終わったことだから」
 としか応えてくれなかったそうである。
 二人の間に何が話されたのか、どういう決着がついたのかはわからない。
 そして友人達が博文の家を訪問してから何日も経たないうちに、事故は起こったのであった。

 自失してふらふらと彷徨っているうちに道路に出てしまった、という可能性もあるので、事故なのか自殺なのかでやや揉めた。だが、大目に見たって「消極的な自殺」だろうと春駒は思う。
 由美子の独断でしでかしたことは、結果的には我が子を最悪の状態へと導いてしまった。
 トラックに引っ掛けられた博文は頭部を強打し、意識不明となった。酸素マスクをつけた博文の身体に縋り付いて、由美子は、
「どうして、どうして」
 と泣き喚き続けている。
―――どうしてもこうしてもないでしょうに。
 由美子と一緒に博文の成長を見守ってきた春駒にとっても、この痛々しい姿は心を苦しくさせる。
 満面の笑顔で「ママ,ママ」と縋り付いてきた幼い博文の姿が、機械に囲まれた博文の姿に重なる。
―――あなたが余計なことをしたからじゃない。ああ、こんな姿になっちゃって・・・
 涙が、自然にこぼれてきた。他人の夢の中で泣くなどという芸当ができるとは春駒も思っていなかったので、泣いている自分に気づいた春駒はちょっと驚いた。

   ***

 それからの由美子の夢は、ただひたすら、博文の姿を探しまわるものになった。
 現実世界では、きっと由美子は病院へ通ったり、夫の生活の世話をしたりしているのだろう。しかし春駒がお邪魔している夢の中は、意思を持って話し、立ち、歩き、笑う博文を探し求める放浪の連続である。
 博文と似たような後ろ姿を見つけると、由美子はあらん限りの声を張り上げて名を呼び、駆け寄っていく。
 しかし由美子の夢は常に由美子自身の期待を裏切り、振り返った男は赤の他人なのである。

 別のバージョンの夢では、あの同棲相手が登場する。由美子は彼女を口汚く罵り、
「お前が博文の前に現れさえしなければ、こんなことにはならなかった」
 と責め立てる。そして春駒が震え上がったことには、由美子は彼女の首を締め、殺そうとするのであった。
 渾身の力で彼女の首を締め上げると、白い喉はまるで粘土細工であるかのように、由美子の親指がどんどん埋まってゆく。
 はじめは由美子の両手を引っ掻いて抵抗していた彼女の力が弱まり、喉の奥がうがいをするような音をたて始める。身体は大きく波打ち、由美子の身体もそれに合わせてバウンドした。
 彼女の口元からだらだらと涎がこぼれ、舌がはみ出てくる。固く瞑っていたはずの両目は白目を剥き始め、由美子がさらに締め上げると、彼女は「きゅう」というような音をたて、動かなくなるのだ。
 
 この夢を見させられるたびに、春駒は早く由美子から抜け出したいと切に願う。が、きっとこの夢は由美子の願望なのだろう、博文を探しまわる夢に挟まれながら、幾度となく現れた。
 そして肝心の依頼の内容である「博文が誰かと連れ立ってどこかへ行ってしまう」夢は、待てど暮らせど出てこない。
 由美子の話しぶりでは、そういう内容の夢を繰り返し見ているようだったが。亀に相談したいが、相変わらず亀は雲隠れしたままである。

   *

 この日の夢も長かった。
 由美子は、春駒の知らない街を彷徨い歩く。そして傷ついて針が跳ぶレコードのように、
「博文、博文」
 と我が子の名前を繰り返す。現実世界でこれをやっていたら、間違いなく警察に保護されるだろう。そんなことを思いながら、春駒は由美子の中から周りの景色をぼんやりと眺めていた。

 気がつくと、何となく見たことのある場所にいた。
 狭い歩道と、茶色く汚れた中華料理店のガラス窓。コンビニの正面の横断歩道を渡ると、そこは玄亀横町だった。
―――何でここに来たんだろう?
 自分の夢でも混じったのかと、春駒は思った。なぜなら、由美子や博文が住む街は春駒が全く知らない場所だったし、今までの由美子の夢の中に、春駒の住む横浜の風景は一度として現れなかったからだ。
 全く脈絡のない場所や知らない場所が夢に現れることはある。だが、現実に存在する玄亀横町が由美子の夢の中で再現されているのは、何だか不思議な気がした。

「博文!」
 突然、由美子は叫んだ。横町の真ん中、ちょうど玄亀稲荷の辺りに、博文らしき男がこちらに背を向けて立っている。
 由美子は駆け出し、その男の背中に向かって手を差し伸べる。その後ろ姿を、春駒は見ていた。

「ええ?!」
 由美子の後ろ姿が見えるのはおかしい。春駒は慌てて由美子の後を追った。
「ない!髪の毛がない!」
 手首に結んでいたはずの由美子の髪の毛が、いつの間にかなくなっている。
―――いつ解けたんだろう?どうしよう、亀!
 いつか亀が言っていた警告が脳裏をよぎる。
「夢渡りの途中で拠り所を無くすと、夢を渡ることができなくなりますからね。夢が渡れないということは、帰る道が見つけられなくなるということです。だから、夢渡りの最中に拠り所を無くさないよう、気をつけてくださいよ」
 拠り所とは、依頼人の身体の一部である。このままでは、春駒は由美子の夢からも自分の夢からもはぐれ、元に戻れなくなってしまうのだ。
「亀、亀!どこにいるの?亀!」
 必死で亀を呼び、由美子を見失わないように走る。だが、まるで空気が泥の海にでもなったかのように、いくら前に進もうとしても身体が重くて進まないのだ。

 いつの間にか博文は誰かと腕を組んで歩き出し、玄亀稲荷の開き戸を押し開けていた。由美子の姿は、ない。
「待って!博文さん、行かないで!」
 春駒はありったけの大声で博文に呼びかけた。すると、博文の隣にいる人物がゆっくりと振り向いた。
 そして、春駒の眼を見て嗤った。

   *

「・・・え?」
 嗤っているのは、由美子だった。それも二十三歳の息子を持つ母としての顔ではなく、もっと若い「女」の顔で嗤っていた。
 さっきまで博文のことを追いかけていたはずの由美子が、いつの間にか若くなって博文と腕を組んでいる。そして、玄亀稲荷へと入っていこうとしている。
「ゆ、由美子さん、何やってるの?いったい、どうなってるの?」
 混乱した頭で、春駒は由美子に叫ぶ。そんな春駒に向かって由美子は、
「もう、来なくていいわ。あなたは邪魔よ」
 そう言い放った。
 何が起きているのかも、どうしたら良いのかも春駒にはわからない。戸惑いのあまり足を止めた春駒の背後から、
「惑わされないで、そのまま進んで!」
 亀が横町の入り口から走りよってくるのが見えた。

 それを見た由美子は、慌てたように博文の腕を強く掴むと、玄亀稲荷へと引っ張り込んだ。
「春駒さん、あの二人を行かせてはいけない!」
 亀が追いついてきて、春駒を抜き去る。その瞬間、春駒の周囲の空気が突然軽くなり、前に進めるようになった。
 由美子と博文、そして亀の後を追って春駒は玄亀稲荷へ駆け込む。参道はすでに、霧雨に包まれていた。
 
 亀は先を行く由美子と博文の横をすり抜けると、二人の前に立ち塞がった。
「いけませんね、由美子さん。ここにはここの、約束事があるのですよ」
「関係ないわ」
亀と由美子は、お互いに睨み合った。
「亀!これはいったい、どうなってるの?」
 やっと全員に追いついた春駒は、息を切らせながら亀に問うた。
「この女(ひと)は、あなたを利用して博文さんを捕らえようとしている」
「利用して、捕らえる?」
「夢渡りであるあなたに入ってもらって、博文さんを自分の夢の中で見つける。そして博文さんと一緒に玄亀稲荷を通り、別の場所に逃げるつもりです」
「に、逃げるってどこへ・・・」
「誰にも邪魔されないところよ」
 由美子が突然、口を開いた。
「博文は、誰にも渡さない。誰も私たちを知らないところへ行くのよ」
 まるで博文が恋人であるかのように、由美子は博文の腕にしなだれかかった。
「それはあなたの身勝手だ。そうしたいと思うのは勝手ですが、ここを通ることは、私が許しません」
 亀は耳を後ろに倒して、全身を緊張させながら由美子に対峙している。
「さあ、博文さんのものを返しなさい」
 亀は、毛を逆立てながらじりじりと由美子に近づいた。由美子も、背後の春駒との距離を気にしながら、亀の動きに合わせて徐々に後ろに下がる。博文はぼうっとして、なすがままの状態だ。

「これは、これは私のものよ!」
 由美子は胸に手を当てて叫ぶと、一歩大きく踏み出して亀の腹を思い切り蹴り上げた。亀は「ギャッ!」と声を上げて、参道の奥へと吹っ飛ばされていく。
「あんた、あたしの猫に何すんのよ!」
 亀を蹴飛ばされてカッとなった春駒は、我を忘れて由美子に飛びかかった。 小さな生きものを足蹴にするなど、ましてや自分の飼い猫を蹴飛ばすなど、春駒には到底許せなかった。
「離してよ!」
「亀に謝んなさいよ!」
 由美子と春駒は、取っ組み合い始めた。が、小柄な春駒に比べ、由美子は思いのほか力が強かった。
 春駒は固い石畳に組み伏せられた。そして由美子の両手が、春駒の首にかかった。
―――あの夢と同じだ・・・
 幾度となく由美子の夢の中で繰り返された絞殺の場面が、今度は由美子を目の前にして再現されている。
 由美子の両手を剥がそうと爪を立てるが、由美子の親指は容赦なく春駒の首に食い込んできた。
 無性に咳がしたい。唾液が耳の後ろに溜まっていくようで、息苦しい。口の端から顎に向かって、唾液が垂れていくのがわかる。自分の喉がゴロゴロと妙な音をたてるのが聞こえた。視界が狭まってゆく。

「やめてよ、ママ」
 囁くような声が聞こえた気がした。
「そんなことしないでよ、僕は嫌だよ、ママ」
 由美子の手の力が一瞬緩む。春駒は大いに噎せ返りながら身体を反転させようともがいた。
 狭まった視界の中で、何か茶色いものが自分の上を通り過ぎるのを春駒は見たような気がした。

 ボサッというような音が参道に響いた。
「その人を離せ」
 亀が少し離れた場所で仁王立ちになっている。左前足で白い小さな箱を押さえ込んで、由美子のほうを睨んでいた。
「返せ!」
 亀が持っている箱を目にした由美子は、今度は亀に向かって飛びかかっていた。が、亀は箱をくわえるとヒラリと身を躱し、横倒しになっている博文の身体の後ろに廻った。さっきのボサッという音は博文が倒れた音だったらしい。
 春駒は喉をヒューヒュー鳴らして噎せ、水を飲むかのように空気を吸い込んだ。亀はというと、あの白い箱をくわえたまま、するりするりと由美子の手をすり抜けて逃げ続けている。
「返して!お願いよ」
 亀を捕らえられないとわかると、由美子は哀願し始めた。
「ねえ、大事なものなの。もうこの世に一つしかないのよ、それは。いい子だから、おとなしく返して頂戴」
 濡れた石畳に膝をつき、すすり泣きながら由美子は亀に訴えた。
―――あの箱、いったい何が入っているんだろう・・・
 春駒にはただの木箱にしか見えないのだが、由美子にとっては倒れている博文そのものよりも大切なものらしい。由美子は四つん這いになって亀ににじり寄っていくのだが、博文の身体をまるで庭石でも乗り越えるようにして踏みつけていった。

 亀は参道の脇に生えている木の枝を身軽に伝い登ると、くわえていた箱を木の幹の上に置いて前足で押さえ、
「あなたは、それほど大事にしていた、この世に一つしかないものの使いかたを間違いましたね。その報いは、受けてもらうしかないのですよ」
 まるで最後通牒を突きつけるかのような口調で、由美子に言い放った。そして箱を開けると、その中から紙に包まれた何かを取り出し、口にくわえた。
「何をするの!やめて!私に返して!それを返してよ、お願い!」
 由美子は、亀が登っている木に縋りついて哀願した。
 春駒にも、その箱に入っているものが何なのかやっとわかった。春駒も、母親に自分のものを見せてもらったことがある。小さな桐の箱に入ったそれは、かつて博文と由美子を一つの身体につなぎ止めていた臍の緒だ。
 亀は、由美子の哀願には全く耳を貸さず、微かに首を振ったかと思うと、その小さな包みを高く放り投げた。
「返して!」
 由美子も春駒も、その軌跡を眼で追った。
 それは闇の中に浮かび上がり、一度眼を射るような光を放ったかと思うと、白い砂のようになって由美子と春駒の上に振り注いだ。
「ああ・・・」
 あとには、何も残らなかった。
 木に縋り付いていたはずの由美子も、石畳に横たわっていたはずの博文の姿も、いつの間にか消えていた。

   ***

 亀が、木からゆっくりと降りてきた。よく見れば、亀の登っていた木には白い御幣のついたしめ縄が巻いてあった。
「いったい・・・何が起きたの?」
 春駒は事態がよく飲み込めず、ぼんやりと呟いた。
「由美子さんと博文さん・・・どこに行っちゃったの?」
「拠り所を失って、由美子さんはどこかに彷徨い出てしまったんでしょうね」
 亀は身繕いをしながら応えた。
「拠り所・・・博文さんの臍の緒・・・」
「そう。由美子さんはそれをずっと身に付けていた。そして自分の中に入っている春駒さんの夢の残り香を辿って、ここを探り当てた」
「そんなこと、できるの?」
 由美子の夢にお邪魔している春駒の、その夢をまた利用するなどという七面倒くさいことが、本当にできるものなのだろうか。
「由美子さんには、もともと夢渡りの素養があったのでしょうね。それを知った誰かが、善意か悪意かは知りませんが、愛しい息子を永遠に手に入れる方法を由美子さんに指南した」
「永遠に手に入れる・・・」
「息子の夢に滑り込んで、手に手を取り合って、この玄亀稲荷からどこかへ行こうとしていたようですが」
 それが、息子を永遠に手に入れることになるのだろうか。
「現実世界でどうなるかは知りませんが、由美子さんの気持ちの中では、それで満足だったのでしょう。でも、それは博文さんの望むことではなかった」
「さっき、博文さんの声が聞こえたような気がした」
 やめてよ、ママ、という声を、苦しい息の下で聞いたような覚えがある。
「他人様の首を締め上げている母親の姿など、見たくなかったでしょうね。そんなことまでして一緒に居てもらわなくてもいいと、ただ愛してくれさえすればいいのにと思ったのでしょう。だから、やめさせようとした。そのおかげで、あの箱を由美子さんから掠めとる隙ができたわけですが」
 そう言って、毛繕いを終えた亀はゆっくりと歩き始めた。

「博文さんはどこにいっちゃったの?」
 気がついた時には、博文の姿も消えていた。
「さあ・・・たぶん、自分の夢の中に戻ったんじゃないでしょうか」
 無責任な物言いだが、そこは亀の関知するところではないのだろうか。
「迷ってなければいいけどね」
 ここは玄亀稲荷、人々の夢が交差する幽玄の地なのだ。
「むしろ、この場所でことが済んでよかった。由美子さんの夢の中だったら、博文さんは自分の夢に戻る道が見つけられない」
「本当に、戻れるの?」
「もともと博文さんは、自分の夢から出たくなくて閉じこもっていたわけですから大丈夫でしょう。それに博文さんは、冥界の住人ですから」
「めいかい、って何よ」
 春駒の質問には応えずに、亀はどんどん先へ進む。春駒は足を速めて亀に追いつくと、矢継ぎ早に質問を重ねた。
「それに、由美子さんに方法を指南した、ってどういう意味?わたしを利用するよう、誰かが由美子さんにアドバイスしたってこと?そんなこと、誰ができるの?」
 春駒の質問攻めにうんざりしたのか、亀は大きなため息を一つついて振り向いた。
「相変わらず知りたがり屋さんですねぇ、春駒さんは」
「だって、すっきりしないんだもの」
 こんなにわからないことだらけでは、落ち着いて眠れなくなりそうだ。
「じゃあ、かいつまんで説明してあげますからね。でも、もう質問はこれで終わりですよ」
 春駒が頷くと、亀は尻尾を振り振り、
「博文さんは、生死の間を彷徨っているので冥界の住人です。由美子さんに、夢渡りの能力を利用して自分の息子と共に玄亀稲荷へ行け、と指示したのは、恐らく同業者。春駒さんと同じ夢渡りをしている誰かでしょう。でも、なぜそんなことを由美子さんに教えたのか、その意図は私にもわかりません。以上」
 諭すような言い方で一気に説明を述べると、亀はちょっと表情を和らげて言った。
「疲れたでしょう。もう、お休みの時間ですよ」

 ふと眼を上げると、そこには玄亀稲荷の祠があった。
 亀が、足元に擦り寄る。春駒は亀を抱き上げると、その首筋に頬を寄せた。
 
 温かい。
 春駒は亀の身体に吸い込まれるようにして、眠りに落ちた。

   ***

 くすぐったい。
 目が覚めると、飼い猫の亀の尻尾が顔の上に乗っかっていた。
「う〜ん・・・飼い主の顔にお尻を向けるとはどういうことよ・・・」
 右手で亀のお尻を押しのけて、そのまま手探りで顔を探した。鼻を探り当てると、湿った鼻から眼の間にかけてを指でなぞってやる。
 亀はゴロゴロと喉を鳴らした。

「今回の依頼、何の解決にもならなかったけど、あれでよかったのかな」
 亀はごろんとひっくり返って、喉を撫でるよう無言の指示を出した。喉を撫でると、心地よい振動が指に伝わってくる。
「わたしも男の子を産んだら、あの女(ひと)と同じようなことを考えるんだろうか」
 子供を愛するあまり、自分の価値観で子供の幸せの基準すらも決めてしまうような人間に、自分もなってしまうのだろうか。
 しかし、しばらく考えてから思い直した。そう、例えば両親は、自分たちの価値観だけを正しいものとして押し付けたりはしない。考えは人それぞれで、すべての母親が由美子と同じ道を辿るわけではないのだ。
「でも、由美子さんは博文さんのことがとっても心配だったんだよね。だから、自分のもとにずっと置いておきたかったんだ」
 好きな女性との関係を母親の由美子に壊されてしまった博文だけでなく、愛するあまりに、愛情の深さ故にその対象を不幸にしてしまった由美子も不幸なのだと、やっと気づいた。

「亀、外に行きたい?」
 事故が怖いから、迷って帰れなくなるのが怖いからと飼い猫を家に閉じ込めて飼っている自分も、由美子と同じことをしているのだろうか。
 亀は何も応えず、ただ喉を鳴らして眼を細めている。
 この温かさをずっと側に置いておきたいと切に願う、この気持ちが亀を不幸にしていませんように。
 そんなことを考えながら、ずっと亀の小さな頭を撫で続けていた。

                           了

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2005年10月 8日 (土)

夢みどき

大洗藍司(おおあらいあいじ)

 今日は木枯らしもなく、暖かな陽射しが頬に当たる。小春日和とは、こういう日を言うのだろう。涼子は道端 で立ち止ま り、オーバーを脱いだ。
 ――久しぶりにいい天気。予報では、午後から下り坂で冷え込むと言っていたけれど、本当かしら。
 そんな、せっかくの暖かい日なのに、彼女は雪の夢を見ようとしている。店は、駅から五分ほどの、繁華街の一角にあった。
 受付室に通されると、中にいた白衣の中年男性が、コンピュータの画面から顔を上げた。
「いらっしゃい。初めてですか?」
「はい。あの、お医者様ですか?」
「いえいえ。私が白衣を着ているから、そう思った? 私はここの店長で、医師免許など持っていませんよ」
 笑うと目元にしわができて、人懐っこそうな顔つきになる。どことなく狸に似ている、と言っては失礼か。
「当店のシステムはご存じですか?」
「おおよそのところは」
「では、簡単に説明します。当店では、お客様に選んでいただいたストーリーを脳波と同じ波長で送ることで、お客様に夢を見ていただきます」
 これは、日本のベンチャー企業が開発した《夢見途機》(ゆめみどき)という装置で、日本内科医師会から身体への影 響なしとの見解が出されたのを機に、昨 年販売が開始された。
「ですが、日本精神医学会では意見が割れて、今でも公式見解が出ていません。それを考慮したうえで、夢見途機(ゆめみどき)を使われることに同意されます か?」
「精神に障害は起こらないんですね」
「当杜の試験結果から、現在の医学でわかる範囲では問題なしと考えています」
「では、使ってみます」
 涼子は上京してこの方、後味の悪い夢しか見た覚えがない。会社が面白くないせいだろうか。この就職難の時代、勤め先が見つかっただけでもありがたいと思 わねばならないが、今の仕事に興味はわかず、何かにつけ内輪で固まる同僚たちにとけ込むこともできなかった。だから先日会杜でスキーツアーが企画されたと きも、涼予は参加を断った。だが、行かないとなると、無性に雪を見たくなる。
「どんな夢にします?」
「雪を体感できるような夢」
「雪ですか。スキー旅行がありますが、これなんか如何です?」
「スキーはちょっと……。私は南国育ちで、上京して二年になりますが東京も雪が降らなくて。だから、スポーツとか、そういうものじゃなくて、ああ雪だな あって思えるような夢を見たいんです」
 スキーツアーを断ってスキーの夢を見に来たのでは、何とも惨めだ。
「難しいリクエストだなあ。キーワードに《雪》が入って、スポーツを除外するとなると、一本だけですね。ええ と……」
 店長は画面を見たまま、しばし黙り込んだ。
「うーん。お薦めとは言い難いな。楽しい夢になるかわかりませんよ」
「はい」
「雪の中にいるという、それだけの内容。癒しをテーマに静かな基調。映像で言えば、映画と言うより環境ビデオ。作者から、はっきりしたストーリー展開がな いので、面白い夢になるか暗い夢になるか、本人の精神状態によるのではないか、とのコメントがあります」
「それで緒構です。雪さえ出てくれば楽しい夢になると思います」
 そうは思っていなかった。雪を見たくなったのは、現実逃避であろうと自覚している。とすると、楽しい夢が見られるだろうか? けれど他にソフトがないの では仕方がない。
 指定された部屋に入り、用意されたパジャマに着替えると、装置を頭にかぶってベッドに横になった。

 本を読むのに、今日は適しているとは言い難い。寒いし、少々暗い。空には灰色の分厚い雲が垂れ込めている。けれど、昼問だけあって暗すぎるわけではな く、風がないので寒さもそう気にならない。
 東京に知り合いのいない涼子は、いつしか屋外で本を読む趣味を持つようになった。今日も公園のベンチで文庫本を読んでいる。頁をめくろうとすると、手の 甲に白いものが付いているのに気がついた。
 ――雪? 雪が降ってきたのかしら?
 でも、手の雪はなかなか溶けない。よく見ると花びらだった。小さな、白い、花びら。
 と、目の前を白い花びらが一つ、ゆらゆらと落ちてきた。また一つ。
 頭上を見ると、満開の桜があった。真っ自な花を咲かせ、灰色の雲をバックに、薄い輝きを放っていた。
 ――こんな真冬の、こんなに寒い日に、満開の桜なんて……。涼子は文庫本を閉じ、しばらく桜を見上げていた。降り落ちる花びらは、その量を次第に増やし てゆく。そのとき、むき出しの腕に鈍い冷たさを感じた。
 ――雪? 今度こそ、本当に雪? 上から白いかけらが降ってくる。花びらと雪。同じくらいの大きさで、薄い輝きを持って降るのが桜の花びら、その輝きに 冷たく映えているのが雪。花びらと雪が混ざりながら、さらさらさらと降っていた。

 さすがに雪国の夜道は美しい。涼子は、人っ子一人いない田舎道をゆっくり歩いている。
 昨日の夢見途機は、充分に満足のいくものだった。常識で考えれば、真冬に桜が咲くはずも、その時期に半袖になるはずもないのだが、夢の中では不思議に思 わず、ただただ感動していた。その感動が目覚めてからも続いていたのだろうか、無性に本物の雪を見たくなった。触りたくなった。思わず新幹線に飛び乗り、 タ方、これといった観光名所もない、山中山の田舎町にたどり着いた。
 雪が見たくて来たと言う涼子に、そんなもんですかねえ、雪などやっかいではあっても、ありがたいもんじゃないんだけどねぇと、宿の女将は眩いたものだ。
 タ食前にさんざん雪を堪能してはいたが、窓から見える月の冷たさに惹かれて、夜の雪道を散歩したくなった。
「なにもこんな夜中に、雪を見に行かなくても。明日の朝でも見られるに」
 でも、どうしても行きたかった。
「玄関の鍵は開けておきますから、帰ってきたら声をかけてください」
 門限を過ぎているにもかかわらず、女将は優しく送り出してくれた。
 外は、雪が月の光を反射して、思いのほか明るかった。人家や畑は一面に雪が積もって明るく輝き、除雪された道に闇が集まっている。光と闇のコントラス ト。これも雪国の風物詩なのだろう。
 今夜は満月だろうか。まん丸の青白い月が、こぼれ落ちそうな星と共に輝いている。冬の月は、どうしてこんなに冷たいのだろう。夏の月が暑そうには見えな いが、冬の月は間違いなく冷たい。中秋の名月の、温(ぬく)もりのある艶やかさとはまた別の、気位の高い冷ややかな美しさ。人を寄せ付けないその美しさ を、涼子は好んでいる。
 立ち止まって空を見上げると、冷たい月を中心に、無数の星が氷の破片のように散らばっている。その星々の瞬きの中から、ひとつが地上に落ちて来た。
 ――星が落る? そんなはずはないわ。では……、雪? 昨日の夢で見た桜の花びらのような。
 顔に落ちてくる雪は、月の光を帯びて、きらきらと反射する。月が、星が、雪が、それぞれ光を重ね合う。雪は次第に量を増し、さらさらさらと降っており、 あたりは妖しい輝きに包まれる。月夜の雪は、かくも美しかった。

「如何でした?」
 夢を見終わったあと、涼子は再び受付室に来ていた。
「実は、少しばかり心配だったのですよ。いい夢が見られたのか」
 涼子は、興奮気味に夢の粗筋を伝えた。
「大満足です。劇中劇ならぬ夢中夢なんて思いもしませんでした。二度目の夢では、夢見途機(ゆめみどき)を使った記憶も、店長さんと話した記憶もあるんで すよ。実生活そのもので、まさか夢の中とは……」
「脳に刺激を与えて夢を見させるので、ストーリーと記億がシンクロされて、夢と現実の区別がつきにくくなることがあるのです。もちろん、荒唐無稽な夢のこ ともあります。何故こうした違いができるのかわかっていませんが、こういう装置ができたからには、おいおい解明されていくでしょう」
 気が向いたらまた来てください、必ず来ます、そう言葉を交わして涼子は店を後にした。外は、風はないものの空は薄黒い雲で覆われ、気温は低く底冷えがす る。
 ――たかだか二時間で、こうも変わってしまうとは。天気予報は当たったわ。
 駅に向かって歩き出すと、頬に冷たいものが当たった。
 ――雪! 雪の夢を見に行った帰りに雪が降るなんて。今日は雪づくしだわ。
 立ち止まって、しばらく空を仰いだあと、オーバーの襟を立て、身震いしながら早足に歩き出した。
 雪は次第に降る量を増し、さらさらさらと、流れるように降り続いた。

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2005年10月 1日 (土)

ノーと言わせてくれ(最終回)

「ブー、ブー、ブーッツ!」けたたましいブザー音と共に武田の入っているカプセルが開いた。
武田はどこかの大草原で寝ているような感覚で目が覚めた。しかし次の瞬間、突然激しい頭痛と吐き気が武田をおそった。それから何時間も武田はかつて経験したことのないような激しい頭痛と吐き気に襲われ続けた。ようやく意識が回復してきた武田の脳裏に「目覚めは快適なもんですよ。」という言葉が浮かんできた。
「何が快適なもんですよだ!最悪じゃないか。」
武田は自分の考えで行動が起こせるようになるまでさらに1日費やした。このとき武田はなぜ他の宇宙飛行士たちが辞退していったのかが理解できた。
ようやく歩けるようになって、自分の状況を確認できるようになった。
「今はどこなんだろう、予定では目覚めたときには木星の目前にいる筈だが。」
武田はコンピュータに向かって質問をした。
「コンピュータ今の位置を教えてくれ。」
「現在白鳥座のあたりにいます。」
「なんだって!何かの間違いだろ。」
「いえ間違いありません。光速飛行テストのとき巨大な隕石に衝突しそうになりそれを回避するために大きく起動がそれてしまいました。その後も正規ルートへの軌道修正を試み重力カタパルトを利用して飛行しているうちにここに来てしまいました。なにしろ燃料に制限があるため最小距離では飛行不可能ですから。」

(重力カタパルトとは惑星の重力を利用してロケットの推進力を得る飛行方法だ。ボイジャーもこの方法を利用してエネルギーを抑えて遠くの惑星に飛行を続けている。)

「何てことだ!!どこまでついていないんだ。こんなことなら里香の言うとおりはっきり断っておけばよかった。」
「コンピュータ、ところで現在の計算では間違いなく帰れるんだろうな!」
「それは問題ありません。ただ少しの点を除いては。」
「何だ!少しの点とは?」
「隕石回避のときに大規模な軌道修正計算をしなければならなくなったのですが、計算用の記憶メモリーが足りなくなったため一部の重要度の低い情報を消去してしまいました。ところが今になってその情報がどうしても必要なのです。」
「どんな情報なんだそれは。」
「それはブラックホールに関する重力場の計算の情報です。」
「どうしてそんなものが今必要なんだ。」
「現在突然予期しなかったブラックホールが現れたためこれを回避しながら事象の地平線の外をぎりぎり飛行しています。」
「なんだって計算を間違えたら中に落っこちちゃうじゃないか。この事象の地平線の中に落ちたら光でさえ外に出られないんだぞ。」
「その通りです。しかしここまでの計算は確かに間違っていません。しかし、最後のところに来て計算が出来なくなってしまいました。」
「どんな計算なんだ。」
「あと20時間後に逆噴射する予定だったんですが、この計算だけが情報が足りなく不十分なのです。それまでの計算結果によると、その20時間後の逆噴射をするか、しないかのどちらかが正しいことが判明しています。このまま行くと丁度20時間後に逆噴射をしますけれどよろしいですか?返事はイエスかノーのどちらかで良いですのでお答えください。20時間以内にどちらの返事もない場合は逆噴射することにします。それではどちらかの返事をお待ちしています。」
「ちょっと待てよ!なんてついていないんだ。冗談じゃないよまったく。いったいどうすればいいんだ・・・」
武田はしばらくの間呆然と立ち尽くしていた。その目はいつものようにどこかの遠くを見つめているようだった。ただしこの時ばかりはその目の先は果てしない宇宙空間に向けられていた。
「よく考えろ。どうすればいいんだ。一体全体どうしてこんなことになってしまったんだ。」
武田はかなり混乱していた。それは今おかれている状況のせいか長期冷凍睡眠のせいでもあるのか、自分がこの計算の専門だということまで中々思い出せないでいた。それから一時間ほどたち武田はようやく我に返った。「そうさ、ボクは何十年もこの計算をやり続けたじゃないか。一日あれば自分で計算しなおすぐらいできるさ。」
武田はそれから飛行船の床にマジックで計算式を書き始めた。それから10時間程で飛行船の床は数式で一杯になった。
「よし、これでようやくすべての計算式が書き終えた。あとは数値を入れてチェックさえすればいいだけだ。」
このとき残り時間は9時間とせまっていた。それから武田はコンピュータにプログラムを組み計算を始めた。長い冷凍睡眠の影響もあってかプログラム作成には結構時間をついやしてしまった。最終的な答えがでたのは残された時間の残り30分前だった。武田は自分の運命がかかっているこの計算を確かめるために、残されたすべての時間を計算のチェックに費やした。そして運命の時間の1分前になってようやくその最終結果が確認された。「やっぱりそうか、逆噴射なんていらないんだ。コンピュータの計算には相対論の肝心な式が抜けていたんだ、逆噴射なんてしたらブラックホールに落っこちちゃうじゃないか。このまま飛行を続ければ帰れるんだ。」
武田の顔は絶望からみるみるうちに精気と希望がよみがえってきた。
「やった!とうとうやったぞコンピュータの答えは間違っているんだ。」武田は今まで彼の人生でなかったほど興奮していた。そして大声でさけびだした。「やたぞ、帰れるぞ。よし!よし!やったぞ!イエス、イエス、イエース!」
武田は興奮が抑えられなかったのかガッツポーズをしながら叫んでいた。
「・・・了解いたしました。逆噴射いたします。」
武田はあまりにも興奮していたためこの時コンピュータが武田に最終確認をしていたのに気がつかなかったのだった。
「えっ・・、違う!!違う!!答えはノーだノー、ノー。逆噴射は中止しろ。」
しかし時はすでに遅かった。コンピュータはすでに逆噴射を作動させてしまっていた。
「プシュー」宇宙船の逆噴射が始まった。
「だから違うんだってば、さっきのは回答でなく興奮して叫んだだけなんだ。止めてくれそんなことをしたらブラックホールに落っこちちゃうじゃないか。」
武田の痛切な訴えとは裏腹に無常にも宇宙船はしずかに事象の地平線の中に吸い込まれていた。

「卵を落としたのは俺じゃないんだ。ノーなんだ!」
「NASAなんて行きたくなかったんだ。ノーなんだ!」
「人質なんかになりたくなかったんだ。ノーなんだ!」
「宇宙飛行士なんかなりたくなかったんだ。ノーなんだ!」
「逆噴射なんてさせたくなかったんだ。ノーなんだ!」
「里香と別れたくなかったんだ。ノーなんだ!」
「誰かきいてくれ!全部ノーなんだ。ノー、NO!、NO!!・・・」


「ブラックホール」そこは物質も光も音もすべてのものを吸い込んでしまう空間である。もはや武田の声は誰にも届くことはないであろう。願わくば「ブラックホール」のその先が何処かの宇宙空間と繋がっていて別の空間に放出されるかタイムワープによって時間が戻ってくれることに期待するしかない。
そこで武田はそして、彼の次の人生ではきっと相手の正面を見て「ノー!!」と言えるに違いないであろう。

(終わり)

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ノーと言わせてくれ(9)

それから武田の宇宙飛行の訓練が始まった。
技術スタッフの説明が武田にされた。
「木星には片道三年で往復六年かかります。あと現地の調査が一年合計七年の年月が必要です。ただし、この飛行計画はロケットの最大速度が高速の十分の一まで加速するテストが含まれているめ、飛行中は最新の冷凍睡眠技術を利用します。」
「冷凍睡眠!」
「ええ、すでに人体テストも実証済みですのでご安心ください。なーに、目覚めは最高の気分ですよ。しかもこの技術を使えば理論上は一万年の旅行も可能になりますからね。」
武田はその後宇宙飛行のための訓練を受け1年後木星へ出発の日がやってきた。
武田は大勢の人々に見送られ、人類の未来のためにと送り出されることになった。
乗船の直前には里香もやってきて「7年は長いわね。待ってられるかしら?」と微妙な言葉を投げかけていった。
武田は宇宙船に乗り込むとスタッフが待っていた。冷凍睡眠の準備をするためだ。武田は人が一人くらいはいるカプセルの中に寝かされた。
「本当に大丈夫なんですよね?ちゃんと目覚めますよね?」
「なーに、何も問題はありませんよ。目覚めは快適なもんですよ。いい夢をいっぱい見てください。」担当技術者はそう武田に言葉を投げかけると。冷凍化のスイッチを押した。
プシューという音とともにカプセルの中は一面ガスに覆われた。

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2005年9月29日 (木)

ノーと言わせてくれ(8)

それから武田は一ヶ月の休養をとりNASAに向かうことになった。
NASAに着くと長官が直々に武田を出向いた。
「やあ、君が武田君だね。その節は大変だったねえ。でも君はいい彼女をもったよね。」
このとき武田は里香の交渉していた相手がNASAの長官であったことを知った。
「ところで私に重要な任務とはなんですか。」
「うん。それなんだが、今度の木星有人探査の件なんだが・・・」
「宇宙飛行士が決まったんですか?」
「それが、決まったといえば決まったんだが・・・」
「それは誰なんですか?」
「この際だからはっきり言おう。候補は君なんだよ!」
「ぼ、僕ですか?ちょっと待ってください。僕は確かに宇宙飛行士ということでノミネートされていますけれどそれは表向きで本当は技術スタッフじゃなかったんですか?それに僕には宇宙飛行士なんか出来ませんよ。」
「そう言われてしまうとそうなんだが、実は候補は10人いたんだがこのプロジェクトが進むうちに一人づつ辞退していって最後には9人とも辞退してしまったんだよ。そして残ったのは君一人なんだ。」
「何故皆辞退してしまったんですか?だめです、だめです、僕なんかが宇宙飛行士だなんで・・・」
「困ったなあ、もう時間がなくなってしまって正直に言うと君がノーといってしまうとこのプロジェクトは終わってしまうんだよ。」
「だったら他に代わりを探せばいいじゃないですか。」
「今から代わりといっても宇宙飛行の知識があって気力、体力があってなんて人そう何人もいないんだよ。」
「僕は体力なんてありませんよ。」
「君は誘拐されて三ヶ月も生き延びて無事に帰ってきた。それに知識も十分だ。君が最適な人なんだよ。それにこんなことは言いづらいんだが、君の身代金三億円を払ってしまったため予算もぎりぎりになってしまったしね。あっ、身代金を払ったから代わりに行ってくれといっているんじゃないだ。でも君なら引き受けてくれると思うんだが、ああ大統領に何て言おう。きっと私はクビだな。君が引き受けてくれると思って三億円もつかってしまった・・・」
そういうと所長は頭を抱え込んでしまった。しばらく沈黙が続いていたが所長は武田のほうにゆっくりと顔をむけた。
「頼む、NASAいや人類の未来のために引き受けてくれ。」
「そんな・・・、でもお世話にもなっているんですが・・・」
「そうか、やってくれるか、きみなら引き受けてくれると思ったよ。これで私もNASAも救われた。ありがとう。ありがとう。」
「い、いえ、引き受けるとは・・・」
「早速この書類にサインをしてくれ。そうそう君の身代金に払った三億円のことは忘れてくれていいよ。」
そう言うと所長は用意してあった契約書を机の引き出しから出した。
「君は人類の勇者だよ。ありがとう。」
そういうと所長はペンを武田に渡して手をとるようにサインさせた。武田もさすがに断りきれなかったのかよく考えずにサインしてしまった。
「あの所長それで宇宙飛行のメンバーとか計画はどうなっていますか。」
「あっ、ああ、あとで詳細を伝えるから。私は直ぐに大統領に会う約束があって行かなきゃならないんだ。また明日ゆっくりと話すことにしよう。」
所長は武田のサインした契約書をひったくるように取り上げると慌てて部屋をでていった。
「所長、あの、待ってください。サインはしましたけれど・・・」
所長は武田の声を聞く余地なく、走って出て行ってしまった。
その晩になって家にもどった武田は部屋のテレビを見ていて仰天した。
ホワイトハウスでの大統領の記者発表に所長が出ていたからである。
「本日、木星探査のための宇宙飛行士が決定いたしました。本計画は人類の未来にとっての重要な役割を担っています。今回の宇宙飛行士は宇宙飛行船の大きさの制限もあり、一名になります。この重要な役割を果たす勇気ある人物を発表いたします。」
「その人物は日本の武田勝利さんです。武田さんは先日のハイジャックで誘拐されながらも不屈の闘志をもって3ヵ月後無事生還された人物です。」
大統領の演説が続いた。大統領の横にいた所長は満面の笑みを浮かべて武田の顔写真を持っていた。
放送が終わってから十分もしないうちに電話がかかってきた。里香からである。
「何やってんのよ!!木星なんか行ったらもう会えなくなるかもしれないじゃない。一体何年いっているのよ。私はどうすればいいのよ。ばかー!」
里香は一方的に電話を切ってしまった。

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2005年9月28日 (水)

ノーと言わせてくれ(7)

武田は何処かの村で下ろされた。目隠しを外したとき自分が自由になったことに確信が持てた。武田は村に入ると自分が誘拐されていたことを伝え保護を求めた。
その後すぐに保護され日本への帰路に着くことが出来た。

武田が成田空港に着いたときには大勢の報道陣に取り囲まれていた。武田は必死に誰かを探していた。武田が一人の女性を見つけると同時にその女性は駆け出して武田に抱きついた。
「ばか、心配ばっかりかけて今度こそ何処にもいっちゃだめよ。」里香は武田をきつく抱きしめた。
その後武田は報道陣の質問攻めに会い、誘拐されていたときの出来事を詳しく話した。
武田が里香のアパートに帰れたのは深夜一時をまわっていた。
「里香どうしても聞いておきたいことがあるんだけど・・・」
「なに?」
「どうして僕は解放されたんだい。」
「そんなこと明日にしない。」
「いや、どうしても今知りたいんだ。」
「いいわ、貴方が誘拐されてから日本では大騒ぎになって。政府をあげて貴方の行方を追ったわ。しかし居場所も犯人も特定できず犯人からの連絡をまっていたのよ。そしたら犯人からのビデオが送られてきて身代金の要求があったのよ。」
「一体いくらだったんだい。それが初めは救出にかかわることなので政府は公表しなかったの。私も総理大臣にまで直訴にいったわ。」
「総理大臣?」
「当たり前でしょ、あなたの命がかかっていたんだから。」
「しかし、一ヶ月たってもいっこうに交渉が進まない様子だったのよ。そこで新聞記者たちに協力してもらって内情をしらべたら身代金が三億円だということがわかったのよ。政府は今までの経験から五千万円程度を考えていたらしく、テロには屈しないという理由で交渉には応じなかったのよ。」
「それでどうして僕は解放されたんだい。」
「もし政府が身代金を払わないと知ったらあなたの命が危ないから、貴方の上司に頼んだのよ。そしたら貴方の上司は研究所を早期定年して何処かにいってしまったというのよ。信じられる?」
「でも誰かが身代金を払ったから僕は解放されたんだろ。一体誰がそんな大金をはらったんだよ。」
「NASAよ!」
「NASA、僕が行く予定だったNASAのことかい。」
「そうよ、私も必死だったからNASAに行って頼んでみたのよ。そしたら直ぐにOKがでたのよ。ただし条件があると言われたわ。」
「どんな条件なんだい。貴方がもし無事に帰ってきたら今度の木星飛行計画の重要な任務に就くことに同意することだって。」
「それはどんな任務なんだい。」
「それが今は話せないんだって、とにかく貴方の命がかかっていたからどんなことでもいいといってしまったのよ。」

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