冥界訪問 第六話
「冥界訪問 第六話」藤かおり
夢渡りという仕事に、典型的な例というものがあるのかどうかは知らない。が、少なくとも目の前にいる依頼人は、春駒にとっては変わった依頼人だった。
「ご本人としては、どうお考えなんでしょうね」
亀も困ったような顔をして、首を傾げて依頼人に訊ねる。
「少なくとも、今のままよりはまだましなんじゃないかと思うんですよ。もう、毎晩のようにうなされっぱなしなんですから」
依頼人の片割れ、母親が応えた。もう一人の依頼人である娘のほうは、じっと黙って俯いたままだ。
今回の依頼人は、二人でやってきた。なぜそんなことができるのか、春駒にはその仕組みが全く見当つかないのだが、夢について悩んでいるのは娘のほうであり、それを見かねた母親が依頼してきた、ということらしい。
こういう依頼のされかたは、初めてのことである。
「それはそうだと私も思いますが、一応ですね、ご本人の意向は確認しておきたいんですよ」
そう言って、亀はまた娘をじっと見つめたが、娘は目を合わそうともせず、自分の膝の辺りを見つめている。耳にかけていた髪の毛が、はらりと落ちてその横顔を覆った。まだ中学生くらいだろうか。
やや幼さの残るその横顔は、何かの痛みを堪えているようにも見えた。
「なぜ、そんなことにこだわるんです?」
母親は、少しイライラした口調になってきた。
「それはですね、夢渡りが関わることが、必ずしもいい結果を生むとは限らないからですよ」
亀は母親をなだめるように、噛んで含めるような口調で応える。
「私たちは、依頼されたことに誠意を持ってお応えしようと努力はします。最前は尽くしますが、それでもうまくいかないこともあるんです。ですから、依頼をされるかたにそのことを納得していただかないと」
「お願いしているのは、ただこの子の悪い夢をどうにかして欲しい、ということだけなんですよ」
「それはわかりましたが・・・」
その悪い夢を見ている本人が、どうもあまり乗り気ではなさそうに見えるので、亀も春駒も迷っているのである。
「孝子、あなただってこのままじゃ嫌でしょ?」
母親が俯いたままの娘に問い質すが、娘は両手の爪をいじくっているばかりで応えない。
どうやらこの娘は孝子という名前のようだ。先ほどからずっと孝子の様子を見ていた春駒は、ここで初めて口を挟んだ。
「あの、お母様」
「何ですか」
母親の方は、春駒を睨みつけるようにして顔を向けた。たぶん、すぐに依頼を受けてもらえると思っていたのだろう。色よい返事がなかなか帰って来ないので、怒り始めたようだ。
「少しの間、孝子さんとだけお話させていただけませんか」
母親はちょっと逡巡したが、
「わかりました」
意外と素直に席を立って、声の届かない離れた場所に座り直した。亀は、怪訝そうな顔で春駒のことを見つめている。何をしでかすのかと、心配なのに違いない。
「孝子さん、初めまして。わたし、春駒と言います」
孝子はちょっと視線を上げて、微かに頷いた。
「あのね、これはわたしの勝手な想像で言うことだから、見当違いだったらごめんなさいね」
春駒は身を乗り出して、囁いた。
「夢の内容がお母さんに教えるようなことは、しないから」
孝子は、はっと顔を上げて春駒の目をまともに捕らえた。
「どんな夢があなたを苦しめているのか、それを誰にも知られたくないんじゃないかと思ったのだけれど」
春駒を見つめる孝子の両目がみるみるうちに赤く縁取られ、唇が震え始めた。しかしそれでも、孝子は何も喋らない。
「守秘義務、ってわかるかな?仕事で知った他人様のことは、誰にも喋っちゃいけないっていう約束があるの。だからもしね、あなたの夢のことがお母さんに知られるのが嫌なら、絶対にお母さんには話さないって約束するけど」
「・・・本当ですか」
擦れた声で、孝子がやっと口を開いた。涙をぽろぽろとこぼしながら、春駒を見つめている。春駒の推測は、的を射ていたようだ。
「うん、約束します」
安心させるように力強く言うと、それを聞いた孝子はしゃくり上げ始めた。母親が離れた席から、心配そうに孝子の様子を窺っている。
「じゃあ、その嫌な夢をどうにかするために、あなたの夢の中にお邪魔していい?」
改めてそう問うと、孝子はだいぶ長い間逡巡した。春駒も亀も、孝子が自分で決断するまで辛抱強く待ち続けた。
「お願いします」
沈黙の後に、ようやく孝子は返事を返した。
「じゃあ、あなたが嫌な夢から解放されるように頑張りますからね。亀、お母さんのところに行って、夢の中身は秘密ですよって説明してきてよ」
亀に向かってそう言うと、
「わたしがですか」
さも嫌そうに、耳を後ろにべったりと倒して亀は春駒を見上げる。
「わたしは髪の毛を預かっておくから、その間に、ね」
「全く、面倒を押し付けるんだから・・・」
ぶつくさと文句を言いながら、亀は座席から飛び降りた。尻尾を豪快に左右に振りつつ、母親の座っている席へと向かう。
「見て、あの尻尾!怒ってるんだよ、あれ」
そう言って亀の後ろ姿を指差して笑いかけると、孝子は涙で火照った顔でほんの少し、笑った。
*
「酷いですよ春駒さん、あんな嫌な役を押し付けて」
レストランから出た亀は、まだ尻尾をブンブン揺らしながら春駒に抗議した。
「だって、あのお母さん怖いんだもん」
「何で母親の私が説明をしてもらえないんだ、って散々ごねられましたよ」
「本人が嫌だって言うんだから、しかたがないじゃんねぇ」
それでも納得いかない、と、あの母親が小さな猫に食って掛かっている様子が目に浮かんで、春駒は思わず笑ってしまった。
「その代わりと言っては何ですが、情報が一つ入りましたよ」
孝子は数ヶ月前、泊まりがけで遊びにいった母親の実家で火事に遭っているのだと言う。孝子と、そこに暮らしていた祖母と叔母は無傷だったが、叔父が焼死したらしい。
「え、火事!じゃあ、その火事の夢に怯えているんじゃないの?叔父さんが亡くなったところを見たとか・・・」
「あのお母さんも、最初はそう思ったらしいんです。だから精神科に受診もした。しかし孝子さんは、叔父さんが焼死するところは見ていないそうですよ。それにその火事の夢なら、こんな夢で怖かったんだ、と母親に打ち明けても良さそうなものです」
確かに、それはそうである。いったい、孝子はどんな夢にうなされているのだろう。火事は無関係か。
「それにしても、なぜあの子が夢の中身を知られるのが嫌だとわかったんですか」
亀がチラチラと振り向きながら訊ねる。
「う〜ん、半分当てずっぽうだけど」
「何だ、カマをかけただけですか」
「違うよ。あの子、たぶん小学校の高学年か中学生くらいでしょ?あの年頃って、けっこう後ろ暗い事を隠してるもんなのよ」
「後ろ暗い、って犯罪ですか?あの歳で?」
亀は驚いて聞き返す。
「そんな大それた事じゃなくても、そうだね、大人からして見たら些細な事でも、当人にとっては重大事件だったりすることがあるのよ。だから、そういうようなことであの子が悩んでいるんじゃないかと思ったの」
大人ではないが、幼い子供ではない。そんな年頃には、親に言えない秘密を胸に抱いていることがある。
春駒自身もそんなことがあった。友達同士で「絶対内緒だからね」と約束したことは、親には口が裂けても言わなかった。今から思うと、それほどすごい秘密ではなかったのだけれど、当時は真剣に約束を守り通そうと思っていた。
だから孝子もきっと、親には言えない、言わないと決心しているのではないかと思ったのである。
「ふ〜ん。人間って、変ですね」
「猫には秘密もへったくれもないでしょ」
「後ろ暗いようなことはしませんからね」
「嘘ばっか。夜中に盗み食いしてるくせに」
「だって、朝までお腹が持たない」
そんなことを言い合っているうちに、亀と春駒は寂れた商店街に出てきた。
開店休業中のような中華料理店の前を通り過ぎると、道は緩やかに左にカーブしていく。埃を被った商品を申し訳程度に並べた履物屋。100円均一のワゴンを歩道に出している、昔ながらの古本屋。
この商店街は、横浜の再開発から完全に取り残されて、ランドマークタワーに見下ろされながら息をひそめている。
売り物も買い物客も駅の大規模な地下商店街やデパートに奪われて、街ごと老い、朽ちていっているかのようだ。
信号を渡って左に曲がると、玄亀横町に入る。気がつけば辺りは夕闇に包まれ、玄亀稲荷の入り口にある灯籠がぼんやりとした光を道に投げかけていた。
「今回の依頼は、けっこう楽かもしれないね」
「それは行ってみないとわかりませんよ。孝子さんがどんな夢にうなされているかによるでしょう?親御さんには秘密にしたいような事なんですし」
「まあ、大きい話でも、友達と一緒に万引きしたとか、そんな事じゃないかと思うんだけどな」
「それ、犯罪ですよ」
「火事とは関係なければいいけど・・・」
「なぜ?」
「あの子が火元だったりしたら、やりきれないもん」
悪意はなくとも、遊んでいたら火がついて火事になってしまった、結果的に親戚が焼け死にました、とでもいうような話だと、救いがない。
「秘密にしたいことねえ」
亀は、小首を傾げるようにして呟く。孝子のような年齢の女の子が後ろ暗い秘密を持つということに、あまりピンと来ないようだ。
「いずれにしろ、行ってみればわかる。でしょ?」
春駒が亀の口癖を真似て笑うと、
「そうでしたね」
亀も鼻をピクピクと動かして笑い、二人は玄亀稲荷へと入っていった。
*
孝子の髪の毛は、つるつるして結びにくかった。その手触りに若さを感じて、春駒はちょっと寂しくなる。
二十代半ばとはいえ、鏡を見れば、歳を重ねて生きてきた自分の姿にため息が出る時もある。髪も肌も、十代の頃よりも艶を失った。鏡の中に十年後の自分を垣間見る事もある。
歳を重ねて生み出される美しさもあると話には聞くが、確実に失われるものも存在することを、誰も否定はできない。
孝子から見たら自分はお姉さんかな、それともおばさんかな、そんな馬鹿げたことを考えながら、春駒は足を進めた。
霧雨が冷たい。
鳥居から落ちてくる水滴が頭に落ち、こめかみを伝って頬を流れる。まるで泣いているかのようだ。
この場所は、誰かの代わりに泣いているのかも知れない。だから、いつも霧雨が音もなく降り注いでいるんだ。
そんな想像を巡らせているうちにふっと視点が前方に集まり、暖かいものに包まれていくような感覚を春駒は覚えた。
***
(おばあちゃんとおばちゃん、まだかな)
そんな心のつぶやきで、春駒はうっすらと覚醒した。
足はポカポカしているのに、肩の辺りが寒い。身体にかかっている布団を引っ張ったが、重くて肩まで上がってこない。
春駒がお邪魔している人物は、今度は自分の身体を動かして、布団に潜り込んだ。布団の中は大きな空洞で、ちょっと暑いくらいだ。
―――あ、炬燵(こたつ)だ。
この人物は、炬燵の中に寝っころがってうたた寝をしているようだ。引っ張っても布団が引き寄せられなかったのは、炬燵の上に乗っている台が重かったからだ。
目の前には少女マンガの雑誌が開いたままになっている。この感じでは、どうやら無事、孝子にお邪魔できているらしい。
孝子は半分覚醒しつつ、惰眠を貪っている。時計が時間を刻む音が、微かに聞こえてくる。
春駒はこうして秒針の音を聞いていると、「寿命」という大きな塊から時間が細かく削り取られて、砂になって崩れていくような、そんな儚い気分になってしまう。
どこかでガラガラと戸の開く音がした。続いて誰かが床を踏みしめて歩く音がする。
「おーい。あ、まだ帰ってないのか」
孝子がいる部屋を誰かが覗く気配がして、男の声がした。声の感じからして中年の男性だから、焼死したという叔父なのだろうか。目覚めの時に聞いた「おばあちゃんとおばちゃん」という言葉も合わせて推測すると、どうやらここは火事が起きた家のようだ。
夢を遡ることなく、いきなりここに来たということは、やはり孝子が苦しんでいるのは火事の夢なのかもしれない。
「うーん、まだ帰ってきてないよ」
孝子が生返事をする。
「そうか。孝ちゃん、お腹空いてないか」
「・・・空いてない」
孝子はかなりいい加減に返事を返すと、またトロトロと眠りに入った。
お邪魔している孝子が半分眠っている状態なので、あまり情報が入ってこない。微かな意識から伝わってくるのは、祖母が腹痛を訴えて病院へ行っていること、叔母がそれに付き添っていったということくらいである。
部屋の入り口の辺りに昔ながらの石油ストーブが赤々燃えている。そこからの柔らかい熱が、さらに頭をぼんやりとさせる。
―――うちのおばあちゃん家にもあれがあって、よくおばあちゃんがストーブで煮豆を作ってたなぁ・・・
春駒はしばし、幼い頃の思い出に浸る。そして孝子は、夢の中でまた夢を見ている。
宿題が気になっているようで、算数ドリルを開くところまではさっきから何度も出てくるが、いつまで経っても書き込まれることはない。
まるで自分の小学生の頃を見ているようで、春駒はちょっと可笑しくなった。
*
ふくらはぎが痒い。
孝子は手を伸ばして、左足を掻いた。ずっと左を向いて横になっているので、炬燵に暖められ過ぎたのだろうか。
また、痒くなった。というか、くすぐったいような感覚だ。孝子はもぞもぞと身体を動かすと、寝返りを打った。だが、そのくすぐったいような感覚は消えない。その感覚に孝子も春駒も某かの意思を感じて、はっと目覚めた。
―――触っている・・・誰かが指で足を触っている。
孝子が目を開けて炬燵の中を覗き込んだとき、春駒はそこに亀の姿を見つけた。亀は目を緑色に光らせながら、炬燵の中で蹲っている。
―――今の、亀がやったの?
そう心の中で問いかけたが、答は別のところから返ってきた。
首筋に、息がかかる。誰かが孝子の背後に身を寄せて、足を触っているのだ。煙草の匂いが、鼻につく。
「動いちゃだめだよ」
振り向こうとした孝子に話しかけてきたのは、さっきの男だった。
「そのままでいるんだよ。じっとして、声も出しちゃ駄目だ」
優しい口振りではあるが、その口調には孝子を威圧するものがあった。孝子は身を固くして、炬燵の中で縮こまる。
「怖くないからね。じっとしているんだよ」
男、孝子の叔父はそう言って孝子の太ももを撫で回し始めた。その手が、段々と足の付け根の方へと上がっていく。
―――こいつ・・・何て男!
孝子と二人きりなのをいいことに、この男は自分の姪を自分の欲求のはけ口にしようとしている。
「信夫おじさん、やだ」
下着のゴムに指がかかったところで、孝子はやっとの思いで小さく声を上げた。しかしそのか細い抗議は、首に緩やかに伸びた手によって遮られる。
「お父さんにもお母さんにも、おばちゃんにもおばあちゃんにも言っちゃ駄目だよ。おじさんと孝ちゃんの秘密だ。いい子だから、おじさんの言うことを聞きなさい」
孝子の細い首に指を軽く食い込ませ、諭すように、半ば脅すようにして叔父、信夫は囁く。
―――孝子ちゃん、すぐに立ち上がって、逃げなさい!こいつの言うことを聞く必要なんかないのよ!
春駒は孝子の中で歯噛みしながら叫ぶが、孝子は怯えて動かない。自分の身に善からぬ事態が迫っているのは感じても、具体的に何が起こるのか判断がつかないようだ。
しかも相手はよく知っている人物で、しかも大人だ。逃げたいと思う気持ちと、言うことを聞かなければならないという気持ちに引き裂かれて、孝子は結局身動きが取れない。それをいいことに、信夫の醜悪な行為はエスカレートしていく。
「いい子にしてなさい。気持ちよくなるからね」
信夫は下着の上から、ゆっくりと孝子の陰部をなぞり始めた。信夫の息がだんだんと荒くなる。
―――気持ちいいのはあんただけよ、この下司!孝子ちゃん、早く起き上がって逃げるのよ!
春駒は泣きたいような気持ちで、孝子に呼びかける。しかし夢渡りの春駒の声は、孝子には届かない。
春駒は、今の孝子と同じように身近な男性から性的な「いたずら」をされ、それを心の傷として引きずっている友人の話を聞いたことがある。そして春駒自身も、相手は近親者ではないが、同じような経験がある。
「いたずら」するほうにとっては「いたずら」でしかないのかも知れないが、それを受けたほうは「いたずら」では済ますことのできない、深い傷がついてしまう。
やがて誰かを好きになり、その相手と身体を合わせたいと思った時に、この悪夢は甦る。
好きな相手が愛おしんでしてくれているはずの愛撫に感じることを、心が拒絶する。どこか心の奥の方で「感じることはいけないことだ、穢らわしいことだ」と己を糾弾する声が聞こえてくる。
身体と心がバラバラになって、身の置き所のない罪悪感に苛まれる。この身体を持って生まれてきたことが、罪であるかのような気持ちになる。
皆が皆、そうではないのかも知れないが、少なくとも春駒はそういう想いを抱いたことがあった。
―――亀、何とかしてよ、助けてよ!
孝子が今受けている屈辱は、春駒のものでもある。春駒は何もできない自分が悔しくて、涙を流した。
*
「ほら、気持ちいいだろう?」
信夫は身体をすり寄せながら、孝子の下着の中に指を差し入れる。太ももに怒張した陰茎が当たるのを春駒は感じたが、孝子にはわからなかいかも知れない。むしろそのほうがいい、せめて今はわからないでいて欲しいと春駒は願う。
「気持ちよくなるよ、もうすぐだよ」
信夫の指は、徐々に乱暴になってゆく。陰唇を指で開くようにして、中心を擦り上げる。
「・・・痛い」
慣れない刺激に鋭い痛みを感じて、孝子は思わず身をすくめた。しかし信夫は、春駒にはとうてい許せない言葉を投げかけた。
「孝ちゃんがいけないんだよ、おじさんが悪いんじゃない」
そして信夫の指が、孝子の身体の入り口へ無理にねじ込まれた。
「痛い!痛い!」
頭の天辺に突き刺さるかのような痛みに、孝子は泣き叫んだ。痛みの出所は股間なのに、その痛みは身体の中心を貫く。
その叫び声に、信夫は一瞬ひるんだ。
その隙に孝子は炬燵に一度潜り込んで、反対側から這い出てきた。
「やめて、やめて」
泣きながらずらされた下着を引き上げて、信夫に向かって懇願する。
「大人しくしろ!声を上げるんじゃない!」
信夫は恫喝して立ち上がろうとしたが、半分ずり下ろしたズボンと下着が足に絡まって、よろけている。
春駒は、信夫が許せなかった。
「孝ちゃんがいけないんだよ、おじさんが悪いんじゃない」
この言葉が、許せなかった。孝子が女だったからいけないと言うのか。一人で寝ていたからいけないと言うのか。
炬燵の上に、果物を乗せた籠が置いてある。蜜柑や林檎の入ったそれの中に、茶色くて細長いものが見えた。
果物ナイフだ。
ちょっと手を伸ばせば、届く。鞘から抜いて、相手に向ければいい。自分を守るのだ。孝子は炬燵の上に手をついた。
「春駒さん、いけない!」
炬燵の上に、茶色いものが躍り出た。果物の入った籠を背に、亀が立ちはだかっている。
「春駒さん、落ち着いて!あなたがあまりにも強く思うと、孝子さんが影響されてしまう!」
はっと気づいた途端、視点が後退したような感じがした。今の一瞬、春駒は自分の視点で果物ナイフを見つめていたのだ。
―――どういうこと・・・
春駒は自分がどうなったのか理解できず、混乱している。
「さあ、孝ちゃん、こっちに来なさい」
今度は信夫が立ち上がり、ゆっくりと炬燵を廻り込んできた。亀の姿は、春駒以外の人間には全く見えていないらしい。
孝子は必死で左右に目をやり、逃げ場を探す。しかし正面から信夫が手を伸ばし、孝子の腕を掴んだ。
「やだ!離して、離して!」
「声を出すな!」
信夫は声を押し殺し、そのまま孝子の口を塞ごうとした。
―――孝子ちゃん、逃げよう!力を振り絞って逃げようよ、頑張れ!
落ち着け、とついさっき亀に忠告されたばかりだが、気がつけば春駒は必死になって孝子を励ましている。それが功をなしたのか、孝子は信夫の腕をくぐり抜けるようにして部屋の出口に向かった。
孝子の右足が、灰皿を踏みつける。吸いさしの煙草や吸い殻が、畳に散らばる。
信夫はまだ、孝子の左腕を捕らえている。
「待て!」
手を伸ばし、孝子の襟首を掴もうと腕を伸ばした時、信夫の膝が入り口近くに置いてあった石油ストーブに当たった。
思わずバランスを崩した信夫は、反射的に手をついて体勢を立て直そうとした。
「ぎゃあああ!」
信夫が手をついたのは、ストーブの上だった。大慌てで手を離した瞬間、足でストーブを蹴飛ばしてしまった。
その場面は、まるでスローモーションの映像を見ているかのように、春駒の目に映った。
いちいち探すのが面倒だから、よく使うところにおいてあるのだろう、ストーブの金網の内側に、マッチ箱が置いてある。
信夫がストーブを蹴飛ばした瞬間、箱からはみ出した二〜三本のマッチに火が移った。
ストーブが大きく傾き、灯油の強い匂いが鼻を刺す。安全装置が働いてストーブの火は消えたが、マッチの火は消えない。
炎の帯が畳の上を這った。狙いすましたように、信夫のズボンに炎が駆け上がる。信夫は奇声を発しながら、ズボンをはたいて火を消そうとしている。
炎の帯は炬燵布団に伸びていき、チリチリと小さな音をたてながら、布団の花柄模様を黒く縁取っていった。
「おい、助けてくれ、水を持ってきてくれ!」
孝子は尻餅をついて座り込んでいた。怯えた目で信夫を見つめながら、廊下へとにじり出る。
「孝ちゃん、お願いだよ、水!水を持ってきてくれ、頼む!」
懇願する信夫の声に、孝子は耳を塞ぎ、目を瞑った。
亀が呼んでいるような気がしたが、春駒も孝子と一緒に耳を塞ぎ、目を瞑った。
*
家から流れ出る煙に気づいた近所の人の通報だろう、ドカドカと足音をたてて、数人の銀色の男達がなだれ込んできた。
孝子が無事救助されるのを確認してから、春駒は孝子の中から抜け出た。道端に亀が座っているのを見つけた春駒は、駆け寄ってそのしなやかな身体を抱き上げた。
「この夢は、捨ててあげたい」
亀の首筋に顔を押し当てて、春駒は呟いた。
「孝子さんが望むなら、ぜひそうしてあげましょう」
亀も、辛そうな声で応えた。
***
孝子とその母親が待つレストランに向かう道すがら、春駒と亀は孝子の夢をどうしてあげたらいいか、話し合った。春駒が、孝子の夢を持ち去ることに異議を唱えたのだ。
しかし、いくら話し合っても堂々巡りになってしまう。
「孝子さんの辛い気持ちを考えると、現時点では夢を取り除いてあげるのがいいでしょうね」
「今はそうだけど・・・」
「もしかしたら、この先ずっと忘れていられるかも知れないですし」
「う〜ん、それはどうかな」
身体がきっと覚えている、春駒はそう思う。今は忘れることができても、誰かが信夫のことに触れたり、孝子自身が誰かとベッドに入った時に、身体に刻まれた記憶が甦るのではないか、そう考えてしまう。
だから春駒は、闇雲に夢を持ち去って問題を先送りにすることが最善の策なのかどうか、悩んでいるのだ。
「しかし、孝子さんは叔父さんに善くないことをされた、ということだけでなく、自分が叔父さんを見殺しにした、ということでも思い悩んでいますから、そっちをどうにかしてあげたいと思うんですよ、私は」
「だって、あれは孝子ちゃんのせいじゃない」
自業自得だ、と春駒は憤った。孝子が受けた辱めを思うと、ざまをみろ、といった感じだ。怒りに任せてそう言うと、
「春駒さんの気持ちもわからないではないですが、人一人死んでいますからね、その衝撃と罪悪感は大きいと思いますよ」
「罪悪感なんて、感じる必要なんかないのに」
そうは言ったものの、孝子が罪悪感をぬぐい去れないことは、春駒にも充分にわかっていた。
*
結局、孝子本人と話し合うしかない、という結論に達した。
待ち合わせ場所のレストランの扉を押すと、窓際の席に二人はいた。小春日和の柔らかな日差しが大きな窓から差し込んで、水の入ったグラスに当たっている。グラスのカットが太陽を滲ませて、テーブルクロスには光の紋様ができていた。
「お母様、申し訳ないんですが、まずは孝子さんとだけ、お話をさせていただきたいのですが」
孝子の母親から何か訊ねられる前に、亀が有無を言わさぬ口調で先手を取った。
「でも私は母親・・・」
「ご本人にまず、報告をさせていただきたいと思います」
亀はきっぱりと言いきって、孝子の母親の抗議は全く受け付けない。母親は渋々席を立ち、離れた場所に座った。
改めて見ると、孝子は痩せていて、身体の線などまだまだ幼い。こんな子がどうしてあんな目に遭ってしまうのだろうと、春駒は悲しくなる。
「孝子さん」
亀が呼びかけると、孝子はビクッと肩を震わせた。顔は下を向いたままである。目の前の相手が、自分がどんなことをされたのかを知っているというのは居たたまれない気分だろう。
「春駒さんは、あなたの夢を持ち去ることができます。そうすれば、あの火事の日のことは忘れられるはずです」
「夢渡りの御遣い」の常識に照らして、ということである。今回はその常識が通じないかも知れないと、春駒は言うのだが。
忘れられる、という言葉を聞いて、孝子は目線を上げた。本当だろうかと訝しんでいる目を春駒に向ける。そして亀も、春駒が反論するのではないかと思っているのだろう、春駒の顔を窺うようにして見た。
「忘れちゃいなさい」
春駒は強い口調で孝子に言った。
「世の中、忘れちゃったほうがいいこともあるのよ。火事のことはね、気にしない。どうせあの時、孝子ちゃんが水を持ってきて叔父さんにかけてあげたって、消えっこなかったんだから。わたしはちゃんと見ていたんだから、知ってるの。あんな火、孝子ちゃんじゃあ消せないわよ」
春駒は一息にまくしたてた。「自分が何もしなかったから、信夫は焼け死んだ」という孝子の思いだけでも、この場で打ち消してやりたかった。
それには、夢とはいえ、一応現場を見ていた第三者の意見が一番だと、春駒は考えたのである。
「そして叔父さんにされたことも・・・少なくとも今は、忘れていたほうがいい」
さっきと違うことを言いだした春駒に、亀はびっくりしている。目をまん丸くして春駒の顔を見上げたままだ。
「今は、って・・・どういうことですか」
孝子は小さな声で訊ねる。
「孝子ちゃんは、心だけじゃなくて身体も痛い思いをした。そうだよね」
泣きそうな顔で、孝子は頷く。
「だから、何かの拍子に身体がその痛かったことを思い出すことがあるかも知れない。だけど、いつかその痛みを手当てしてくれる人に逢えるから。必ず、逢えるから」
「手当?」
「孝子ちゃんの心と身体を、心底慈しんで、大切に思ってくれる人が現れて、手当てしてくれるのよ」
孝子には、よく理解できていないようだ。だが、春駒の自信に満ちた物言いに、少し安心したようでもある。
「もし、また思い出して嫌な夢を見てしまったら、もう一度いらっしゃい。わたしと春駒さんが、またその夢を持ち去ってあげますから」
亀が優しく、孝子に言った。
「そうだよ、何度でも頼まれてあげるからね」
春駒も言い添えた。
孝子は泣き笑いの顔で、春駒と亀に頷いた。
*
孝子の母親には、亀が話をしに行った。叔父の悲鳴が夢の中で聞こえて怖かった、という話を孝子と相談して作り、それで押し通すことにしたのだ。
「ではそろそろ行きましょうか」
母親との話を終えた亀が戻ってきて、春駒に声をかけた。春駒は頷いて、席を立つ。
レストランを出る時に、春駒はちょっと振り向いた。母親が孝子の髪を撫でながら「怖かったね、もう大丈夫だよ」と涙ぐんでいるのが見える。
毎晩のように夢に怯える娘のことが、心配で堪らなかったのだろう。この親子のためにも、孝子の夢はきちんと葬り去ってやりたいと春駒は思った。
街は夕暮れ時である。亀と春駒は、冷たくなってきた風に身をすくめながら、掃部山へと向かった。
掃部山を覆う下草は枯れて、春駒がかきわけるたびにカサカサ乾ききった音を立てる。夏の間、鬱蒼と葉を茂らせていた木々は、緑の衣を脱ぎ捨てて、いかにも寒そうだ。しかしよく見ると枝の先の芽はふくらみ始め、うっすらと赤く色づいている。
もうすぐ、春がやってくるのだ。木々は季節を土と風から感じ取って、芽吹くための力を蓄えている。
てっぺんまで登ってくると、しめ縄をした大きな欅の木、この山のご神木が現れる。現実世界では、緑青の浮いた井伊直弼の銅像が立っている場所だ。
他の木々はみな葉を落としているというのに、この年老いた欅だけは、青々とした葉を茂らせている。
ご神木の裏に回ると、ウロの中に小さな祠がしつらえてある。
春駒は手首から孝子の髪の毛をそっと解くと、懐紙を出して優しく包んだ。それを祠の中に供え、大きく柏手を二つ打つと、深く頭を垂れて待った。
亀も、春駒の足元でじっと畏まっている。
梢の上のほうで、欅が囁く声がする。さわさわという柔らかな音が、まるで玄亀稲荷の霧雨のようにも聞こえてくる。
春駒の頬をかすめるようにして、欅の葉がひとひら、落ちてきた。
それをそっと拾い上げると、春駒はもう一度、欅の木に向かって深い礼をした。
***
朝目覚めて、下のポストに新聞を取りにいくと、白い封筒が届いていた。部屋に戻ってベッドに腰掛け、封を切る。
中から、欅の葉がひらひらとこぼれ落ちる。それを拾って封筒に戻そうとしたとき、その中の一枚に、傷のようなものがあるのに気づいた。
何か、鋭い針のようなもので金釘流に引っ掻かれたそれは、
「孝子」
と小さく書かれた文字だった。
「ねえ、亀、孝子ちゃんからお便りが来たよ」
ベッドの真ん中を占領して顔を洗っている飼い猫の亀に、その欅の葉を差し出してやった。
「いつか、孝子ちゃんにいい彼氏ができるといいねぇ」
亀は名前の書かれた葉の匂いを嗅ぐと、それに同意するかのように目を細めて、甘えるように一声鳴いた。
了
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