冥界訪問 第五話
「冥界訪問 第五話」藤かおり
春駒は、ものすごく焦っていた。とにかく急いで客をさばかなければならないのに、機械が動いてくれない。
スイッチを何度も入れ直し、キーを抜き差ししても、機械はじっと黙りこくったままだ。
「お願いだから動いて!」
焦れば焦るほど客の視線が自分に集中するような気がして、春駒は脇の下に汗をかき始めた。
と、突然カウンターの上に茶色いものが出現した。
「お困りのようですが」
黄色く光る眼をじっとこちらに見据えながら話しかけてきたのは、飼い猫の亀である。
「亀じゃないの!どうしたの?」
そこまで話しかけて、春駒は夢を見ている自分にやっと気づいた。
「夢を見ている」という自覚は、いろんなきっかけでやってくる。ニッチもサッチもいかない窮地に立たされた時に「ああ、これは夢だから何が起きても大丈夫だ」と気づくときもあるし、最初から「今は夢の中にいるな」と何となく感じているときもある。
だが、一番わかり易いのは、こうして猫である亀が自分と同じ言葉で話しかけてくる時だ。
現実世界では、どんなに願っても亀が人間の言葉で話しかけてくることはあり得ない。
「依頼が来ました。一緒に来てください」
「え、じゃあここはどうするの?」
ここは春駒の職場である。亀と話している間にも客は続々と入ってきて、春駒の目の前には長蛇の列ができつつあった。
「放っておけばいいですよ。さあ、早くこっちにいらっしゃい」
そんな命令口調で春駒に声をかけると、亀は軽快にカウンターから飛び降りて、人々の足の間をすり抜けていった。
亀の姿を見失いそうになった春駒は、慌ててカウンターから抜け出ると、
「すいません、すいません」
と頭を下げながら、人ごみをかきわけて店を出た。
店を出ると、そこはなぜか新宿駅の地下通路だった。現実世界での春駒の職場は新宿ではない。何でこんなところに来たのだろうと思いながら、雑踏に消えていきそうな亀の後ろ姿を必死で追うが、行き交う人の波に逆らって歩いているので、なかなか進まない。
ロータリーの前で亀は通路の右側に寄り、角の喫茶店の前で足を止めた。
「ここに来てるの?」
やっと追いついた春駒が亀に話しかけると、
「春駒さん、足遅いです」
亀は尻尾を振りながら応えた。
「だって、人にぶつかりそうなんだもの」
「人間は図体ばかり大きくて、大変ですね」
「余計なお世話よ」
生意気な口を訊くので、春駒は亀の身体を尻尾から頭のほうへ逆なでしてやった。亀は背中をぞんわりと動かして身震いすると、
「さあ、入りましょう。もう待っているはずですから」
春駒を促して店の中に入った。
*
内装の茶色っぽい、やや暗い店である。一番奥の席に男性が一人、煙草を吸いながら座っていた。スーツ姿の男性の年齢はわかりにくいが、春駒よりも一回りくらいは上だろうか。三十代の後半くらいに見える。
亀はその男性の姿を見ると、急に足を止めた。春駒は亀を踏んでしまいそうになって、もう少しで前につんのめりそうになる。
「ちょっと、急に止まらないでよ」
その様子が目にとまったのだろう、男性が顔を上げてこちらを見、
「あ、あなた夢の・・・」
と話しかけてきた。この男性が依頼人のようだ。右目の下に涙ぼくろがあって、ちょっと泣いているようにも見える。
「すみません、お待たせしました」
春駒は足元で突っ立ったままの亀を抱き上げて、急いで席に着いた。
「探し物とかをしてくれるのだそうで」
「ええ、まあ」
「昔のことでも、大丈夫なんですか」
「ええ、たぶん・・・」
そう言って春駒は膝の上の亀の様子をうかがったが、亀はずっと黙りこくったままである。
「何かを探しているんですか」
春駒はしかたなしに、自分一人で話を進めることにした。
「ええ、必ずそこにあるはずなんですが、何度そこに行っても見つからないんです」
ということは、これは単純な「失せもの探し」の依頼だろうか。
現実の世界で失くしものをして、それの行方が気になって夢で探しまわる、ということはよくある。
そして、そんな失くしものは得てしてどうやっても見つからないものだ。自分で失くしたのだから、それがどこにあるかは自分が一番良く知っているはずなのに、その記憶は頭の中の埋め立て地に眠ってしまっているのである。
春駒も、これまでに何度か同じような依頼を受けてきた。依頼人の頭の中の埋め立て地から記憶を掘っくり返すように、幾度も幾度も同じような夢を往復しては、失くした瞬間を探し当てるのである。
「ご自分でも何度かお探しになっているんですね」
「ええ」
「でも、どこに仕舞ったかわからない、と」
そこで依頼人はちょっと言い淀んだ。
「仕舞った、というわけではないんですが」
「と言いますと?何をお探しなんですか」
「石を探して欲しいんです」
「石」
「はい」
「・・・まさか、どこにあるかわからない石を探す、ということではないですよね」
未発見のストーンサークルだとか卑弥呼の墓を探す、などという依頼は御免である。
たまにいるのだ。
「これまでの常識を覆すような歴史的発見の啓示を夢の中で受けたので、証拠の古文書を一緒に探して欲しい」
といったような、春駒の手には負えないような依頼を持ち込んでくる人が。一緒に探してやってもいいが、たとえ見つけ出したとしても、それが必ずしも現実世界に存在しているとは限らない。なぜなら、それはあくまでも夢の中での出来事だからだ。
後になって、
「あの時見つけたあれはどこに行った、夢から醒めて探しにいったのに、見つからなかった」
などとねじ込まれては堪らない。
「いや、どこにあるかはわかっています」
依頼人は確信ありげに応えたが、春駒はまだ疑っている。諸説入り乱れている邪馬台国論争のように、本人が「ここにあるはずだ」と信じているだけで、そこにあるという確かな根拠がない場合もあるからだ。
「あの、私はご本人が失くしたものじゃないと探せないんですが・・・」
恐る恐る問い質すと、
「あ、それはそうなんです。手に持っていた石を落としてしまって、それを探したいんですよ」
それならば探せるかも知れないが・・・
「いつ頃、どこで落としたんですか」
子供の頃に河原で見つけた綺麗な石を、ポロッとその場で落としてしまいました、などという話だと、いくら夢渡りの春駒でも無理というものである。
「十五年ほど昔に、家の近くの採石場で」
「さ、採石場?」
無理だ。
「落としたのは石ですよね、それはちょっと難しいと・・・」
石ころだらけの採石場で、どうやってたった一つの石を見つけられると言うのだろう。
「目印があるから、落とした正確な場所がちゃんと思い出せれば、きっと見つかると思うんです」
「目印ですか?石に?」
夜光石とか言いだすんじゃないかと、春駒はますます憂鬱になってきた。
「この依頼は、春駒さんには難しいと思います」
これまでずっと黙りこくって膝の上に蹲っていた亀が、突然口を開いた。
「大変申し訳ないんですが、他をあたっていただけませんか」
口調は丁寧だが、亀の両耳は頭にぴったりと貼りつき、尻尾が左右に忙しなく動いている。何やら緊張しているようだ。
亀が断るところをみると、やはりこの話は古文書探しのような類のものなのだろうか。
そういうとき以外に亀が依頼を断ったのを、春駒は見たことがない。それにしては、亀の尻尾がブリブリ怒っているのが解せないが。
依頼人は新しい煙草に火をつけると、目を細めて亀の顔をじっと見つめた。
「何か問題でも?」
やや身を乗り出して、依頼人は亀に訊いた。何となくではあるが、春駒はこの依頼人が亀の態度を面白がっているように感じた。
「春駒さんは、まだ夢渡りを始めてから日が浅いものですから、ご依頼の内容がちょっと手に余るんですよ」
「そうですか・・・」
依頼人はそのまま黙って煙草を吸い続けている。
「そういうわけで、申し訳ありませんが今回はご遠慮させていただきます。さ、春駒さん、行きましょう」
亀は春駒の膝から飛び降りると、店を出るように目で促した。
「あ、じゃあ、そういうことですみません、お役に立てなくて」
春駒も慌てて立ち上がると、一つ頭を下げてそそくさと店を出た。
*
さっきまでは新宿駅だったはずが、店を出たとたんに原っぱに来ていた。
「変な依頼だったね。UFOを呼ぶ石を探して、みたいな話かと思っちゃった」
ちょっと先を行く亀に話しかけてみると、亀は立ち止まって春駒に振り返った。
「依頼は選びませんとね」
ヒゲをピクピクと動かして、亀は応える。笑っているようだ。
「ねえねえ、夢渡りをしてる人って、たくさんいるの?長くやってる人がいるの?」
春駒は、先ほど亀が依頼を断った時、その理由が「春駒はまだ夢渡りを始めて日が浅い」からだ、というのが気になっている。
春駒がこの仕事を始めたのは、亀を拾ってしばらく経ってからだから、ここ二〜三年のことだ。それで日が浅いというのだから、長くやっている人はいったいどれほどなのだろうと思ったのである。
「この仕事は特殊技能ですからね、そうたくさんはいないと思いますよ」
「亀は全員を知らないの?」
「まさか。知っているのは春駒さんだけですよ」
「そうなの?」
春駒は驚いた。春駒はてっきり、亀が統括して「夢渡りたち」を管理しているのかと思っていたのだ。
「だってさっきあの人に、わたしは始めて日が浅いから他をあたってくれ、って言ってたじゃない」
「ああ言わないと、断りづらかったので」
亀はしらっとして応える。
「他にも夢渡りがいるのは知っていますが、誰がやっているとかどのくらいやっているのかということは、わかりません。一人の夢渡りにひとつ、御遣いがつくので」
「おつかい?」
「依頼を持ってくる役目のことですよ」
「ふ〜ん・・・」
わかったようなわからないような、中途半端な気持ちで考え込んでいると、
「さ、今の依頼はなかったことにして、お仕事に戻ってください」
気がつくと、いつの間にか春駒の職場の前に戻ってきている。
「え!これから仕事するの?」
「元の夢に戻るだけですよ。きっと機械はちゃんと動くはずですから。ではまた」
そう言い捨てて、亀はスッと路地に入ってしまった。
「・・・やるか」
春駒は渋々、長蛇の列がそのままになっている職場の中へと入っていった。
***
ガチャン、という金属音に続いて、「ピーピーピー」と耳障りな甲高い電子音と共に、テレホンカードが吐き出された。
春駒はカードをひったくると乱暴に挿入口に突っ込んだが、カードはまるで「もう嫌だ」とでも言うかのように弓なりにしなる。
何度か突っ込んでいるうちに、やっとテレホンカードは緑色の箱の中に吸い込まれた。プッシュボタンを七回ほど押したところで、春駒はまた受話器を戻し、苛立たしげなため息をついた。
さっきから実家に電話をかけようとしているのだが、何度ダイヤルしても途中で番号を押し間違ってしまうのである。
自分が夢を見ていることを、春駒は今、充分に自覚している。しかしそれでも、この焦りはどうすることもできない。このような内容の夢を、春駒は年に数回、多い時には月に一度は見るのだが、それが長じてこの頃では、現実に電話をする時にも緊張してボタンを押し間違えてしまうほどなのだ。
どうしてこんな夢を頻繁に見るのかは、春駒自身には全くわからない。だが、この夢のおかげで生活に支障が出ているのは事実なので、どうにかしたいのはやまやまなのだが・・・
「どうしてこんな夢を見るのか、知りたいんですか」
急に話しかける声が聞こえてきて、春駒はびっくりして顔を上げた。緑色の四角い電話機の上から、緑色に光る目がこちらを見つめている。
「あ、亀」
尻尾をゆらりゆらりと動かしながら、亀は春駒の顔をまじまじと眺めた。
「と言いますか、春駒さん、何でこんな夢を見るのか、本当に心当たりがないんですかね」
「・・・特に」
首を傾げて応えると、亀は耳を後ろに倒してしかめっ面をした。
「春駒さん、あなた電話が嫌いでしょうに」
そう改めて言われると、確かに好きではないような気がするが。
「どこかに電話をかける時には、話す内容を吟味してからかけるでしょう?しかも緊張して」
「吟味ってほどじゃないけれど・・・それに緊張はしてないような気がするけど」
そう応えると、亀は鼻を鳴らして、
「飼い主が緊張しているかしていないかが、わからないような猫はいませんよ」
と、半ば馬鹿にしたような口調で言う。
「夢渡りなんですから、自分がどんな理由でどんな内容の夢をみるのかくらい、たまには考えましょうね」
「え〜、そんなのいちいち考えたくないよ」
そんなことまで気にしながらでは、安眠などできそうにない。
「それより、何しに来たの」
「依頼ですよ」
「あれ?今回早くない?」
今までは、依頼が来るのはせいぜい月に一度くらいのものだった。だがこの前石探しの依頼を断ってから、数日しか経っていない。
「依頼人の方が、ずいぶん参っているみたいなので」
そう言って亀は電話機から飛び降りると、春駒の顔を見上げて、電話ボックスの扉を開けるように促した。
*
電話ボックスの目の前は大きな道路になっていた。だが人通りも車も少なく、灯りも乏しい。
後ろを振り向くと、やたらと高いビルがそびえている。左手を見ると、電飾で「Hotel Okura」の文字が見えた。どうやら、虎ノ門にいるようだ。この界隈はオフィス街だから、夜になると寂しくなってしまうのだろうか。
亀はトコトコと道を渡り、ただ一軒明かりを灯している喫茶店の前へと移動した。
春駒もそれに続き、喫茶店のドアを開ける。店の中に客は二人しかいない。
一人は女の人で、ケーキを食べながら携帯のメールを打っている。もう一人は男性で、テーブルの上のコーヒーカップを見つめてじっとしていた。
亀は男性のほうに近づいていき、
「お待たせしました。春駒さんをお連れしましたよ」
と声をかけた。
「あ、よろしくお願いします」
依頼人は顔を上げて、春駒の顔をちょっとびっくりしたように見た。
パッと見た時にはだいぶ年上に見えたのだが、顔を見ると意外と若いように思える。三十歳前後だろうか。スーツを着ている男性は、本当に歳がわかりにくい。
「では早速ですが、お話を伺いましょう」
依頼人がぼーっとしてなかなか話を始めないので、亀が促した。
「す、すいません。えーとですね、ここのところ、ずっと同じような夢を見るんですよ」
ちょっとおどおどして、依頼人は時々つっかえながら説明を始めた。
何かを必死で探している夢を見るのだと言う。
何を探しているのかは、全くわからない。だが、「早くそれを見つけなくてはならない」気持ちで一杯で、その夢を見た朝は、起きるとぐったり疲れてしまうらしい。
その気持ちは春駒にもよくわかる。焦っている夢を見た日は、まるで一晩中かけずり回っていたような気分で起きるものだ。
「せめて、自分が何を探しているのかくらいは知りたいんですよね」
肩を落として、依頼人はため息まじりに言う。
「その夢がどこなのか、いつのことなのか、ということはわかりませんか」
「あ、それはわかります。中学生の頃にうちの実家は引っ越しをしているんですが、それまで住んでいたところだと思うんです。風景に見覚えがあるんで」
何が何だかわからない夢の中で、それだけは確かなことなのだろう。依頼人は嬉しそうに応えた。
「そうしますと、夢の中で何を探しているかがわかればよろしいんですね」
亀が依頼の内容を確認すると、
「そうですね。できればそれを見つけて欲しいですけれど・・・」
依頼人は、そう言って春駒の顔色を伺うようなそぶりを見せた。
依頼の内容を話している間にも、この依頼人はそんな様子を見せていた。春駒の何が気になっているのだろう。
「わかりました。では、髪の毛を一本頂きましょうか」
「は?」
「いや、何でもいいんですが、春駒さんがあなたの夢に入るためには、あなたの身体の一部が必要なんですよ」
「ああ、そうなんですか」
依頼人は戸惑いながらも髪の毛を一本引き抜き、
「これでいいですか」
指でつまんで差し出した。春駒はそれを両手で押し頂いて、懐にしまう。
「では春駒さん、行きましょうか」
そう言って亀が椅子から飛び降りると、
「あのー」
依頼人が、間の抜けたような声で話しかけてきた。亀と春駒が依頼人の顔を見ると、依頼人はちょっと恥ずかしそうに、
「いや、大したことじゃないんですけど・・・意外と若いんだなぁ、と思って」
「はい?」
「夢渡りの人ってもっと年寄りなのかと思ってたから、魔法使いみたいなおばあさんが来るもんだとばかり」
それで春駒の顔を伺っていたというわけか。
「御心配なく。春駒さんは優秀な夢渡りですから」
亀は愛想よく応えると、尻尾を振り振り歩いていった。
「あ、じゃあ、失礼します」
春駒も一つ頭を下げ、亀の後を追った。
*
店から出ると、亀はホテルオークラの方に向かって坂を上り始めた。
「ねえねえ、今回も失せもの探しみたいだけど、この前より難しそうだよ」
この前の依頼は「石を探す」という明確な目的があったが、今回は何を探していいのかもわからないと言うではないか。
「まあ、大丈夫でしょう。行ってみれば何かわかるかもしれませんから」
亀は相変わらずの前向きな発言を返してくる。
「本当に?」
春駒は、そんな雲を掴むような依頼をこなす自信などない。亀は依頼人に向かって「春駒は優秀な夢渡りだ」などと言ったが、この夢渡りという仕事のやり方に、優劣などあるものかと春駒は思う。
「行く前から気をもんでも、しかたないですからね」
亀はしらっと応え、そのままホテルオークラの中に入っていった。
ホテルの中は薄暗く、絨毯も古びた感じがする。その古さは重厚さを醸し出すようなものではなく、むしろ廃れた侘しさを感じさせた。
別館から本館に渡り、メインロビーのエレベータの前に着いた。
「あ、もしかして、またこのエレベータで玄亀稲荷まで直行?」
春駒が嬉しそうに訊ねると、
「そんなに近道はできませんよ。相変わらず、面倒臭がり屋ですね」
エレベータに乗り込みながら、亀はからかうように応えた。
「十三階に行ってください」
亀に言われてボタンを押すと、エレベータは微かに振動しながら昇ってゆく。扉の上の到着階を示すボタンの明かりが、一つ一つ移り変わる。
何の音もしない。こうして亀と二人だけでエレベータに乗っていると、春駒は何だか、このまま一生この箱に閉じ込められてしまうような、箱に乗ってどこか知らないところへ漂っていってしまいそうな儚い気持ちになった。
そんな不安は杞憂だったようで、十三階に着くとちゃんと扉が開いて、亀と春駒はいきなり駅の雑踏の中に放り出された。
よく見れば、ここはまた新宿である。自分はよほど新宿に行きたいのだろうか、忘れている用事でもあるのかと、春駒は妙な気持ちになる。
地下道を高層ビル街の方向に向かって歩き、地下道のガードが途切れると、そこには海が広がっていた。
どうするのかと思っていると、亀は桟橋のようなところに歩いていき、待っていた船に乗り込んでゆく。
「あ、これシーバスだ」
シーバスは横浜港の要所をつなぐ船のバスだ。それがどうして新宿の高層ビル群の前から出ているのか、自分の夢の脈絡のなさに春駒は戸惑うばかりだ。
シーバスは唸りをあげて波を切り、黒い夜の海を進んでいく。潮風が巻くようにして春駒の身体を包み、髪の毛が湿っぽくなった。
現実世界のシーバスは、横浜そごうの裏手やみなとみらい、山下公園に発着所がある。
しかし春駒の夢のシーバスは横浜そごうを通り過ぎ、そのまま小さな橋をいくつかくぐって、春駒の家の前に流れる細い川に入っていった。
シーバスはエンジン音を緩やかに落とし、消防署の裏で停まった。
「降りますよ」
亀はぴょんと身軽に岸に渡ったが、ゆらゆらと動く船から一歩を踏み出すのは、人間の春駒にとっては結構勇気がいる。息を止め、勢いをつけて飛び降りると、亀はとっくに先へと歩いていた。
置いていかれないよう、急いで亀の後を追う。大きな道路を渡り、裏路地に入ると、亀が塀の上を歩いて行くのが見えた。
いつの間にか、昼間の風景に変わっている。小春日和の暖かい日差しの中で、いつもよりくっきりとした輪郭を描く自分の影を見つめながら歩いていると、道路は田んぼのあぜ道に変わった。
黄土色の枯れ草に混じって、ハコベの小さな葉やオドリコ草の丸い葉が見え隠れする。用水路を覗いてみると、芹の若葉が瑞々しく光っていた。
烏の鳴き声がする。それにつられて顔を上げると、そこは玄亀横町の入り口だった。
「用意はよろしいですか」
玄亀稲荷の前まで来て、亀は春駒に声をかけた。
「うん」
依頼人の髪の毛を手首に結わえて、春駒は頷く。
「では、行きましょう」
亀は玄亀稲荷の開き戸の下を潜り、春駒は両手でその扉を押し開ける。
入った瞬間、何だか寒いような気がした。
延々と続く赤い鳥居。
時折風が通り抜け、鳥居の下に溜まっていた水滴が、春駒の首筋に落ちてくる。参道の両脇の笹の葉が、囁き合っているのが聞こえる。
ここは、いつ来ても霧雨が降っている。
雨に霞む亀の姿を見つめながら、春駒はただひたすら足を運んだ。
やがて、ふっと身体が持ち上がり、春駒はそのまま霧雨に溶けていくような感覚を覚えた。
***
荒涼とした風景が広がっていた。白く、埃っぽい地面のあちこちに、大きな岩が角を突き出している。草木一本見当たらず、生きものの気配は全くしない。
そしてここには、何やら人工的な気配がする。山でも切り開いて、生きものという生き物を根こそぎ削り取ったような感じがする場所だ。
この場所で、依頼人は這いつくばるようにしながら何かを探している。時々立ち上がっては、辺りを見回す。どうも何かを怖がっているらしい。
しかし、何を探しているのか、何を怖がっているのかは、夢を見ている本人にはよくわかっていないようだ。
ただ漠然と徘徊し、何かに怯えている。
―――これが、最近いつも見ている夢なのね。
確かに、こんな夢を連日見ていたら不安にもなるだろう。何を意味する夢なのか、知りたいと思うのは当然かも知れない。
―――でも、このままじゃ埒があかないなぁ。
依頼人と一緒になって、ここで何かに怯えながら訳もわからず探し物をしていても、何の解決にもなりそうにない。
春駒は、依頼人の夢の時間を遡ることにした。
いくつもの夢を辿り、さっきの風景と少しでも関係のありそうな場面を探す。
最初のうちは、通勤電車の中で降りられなくなる夢や小さな居酒屋でコップを倒す夢、コピーを間違えて慌てている夢など、仕事に関係のあるような場面が続く。
そのうち、道でバイクが倒れて起こせない夢や、試験会場で真っ白の答案を前に頭を抱えている夢が出てきた。これはきっと、学生時代の夢なのだろう。
どうもこの依頼人は、春駒が分類するところの「危機一髪」タイプらしい。いつも何かに追い立てられたり、焦っている夢ばかり見るタイプなのだろう。
春駒としては、そういうタイプの依頼人にお邪魔すると自分も疲れるので、あまり嬉しくないのだが・・・
そうこうしているうちに、おかしなことが起こった。また、最初の夢に戻って来たのである。
今までに、こんなことはなかった。依頼人の希望通りの結果が得られなかったことはあっても、何の糸口も見つけられないなどということはなかった。
春駒はもう一度夢を辿り始めたが、ある程度の時間まで遡ると、また先ほどの白っぽい地面にいる夢に戻って来てしまうのである。
何だか馬鹿にされているような気がして、春駒はちょっと腹が立ってきた。もう一度、遡ってみる。
しかし結果は同じであった。
―――どうしよう。これじゃあ、何しに来たのかわからないじゃない。
埃っぽい空気の匂いが鼻につく。亀は例によって、まだ姿を見せていない。
―――もう一度、もう一度やってみて、どうしても駄目なら亀を探そう。
大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、春駒はまた夢を遡り始めた。今度はどこまでいくと戻されてしまうのかを見極めようと、一つ一つの夢をしっかりと覚えていくことにした。
会社で失敗する夢、寝坊する夢、試験ができない夢、自転車のチェーンが外れて困っている夢まで来て、また元の場面に戻された。
さっきとあまり変わらない。しかし、一つ気づいたことがあった。
自転車のチェーンが外れてしまってあたふたしている夢の中で、この依頼人は、左手に革の紐を持っていた。
―――あれはきっと、犬のリードだ。
輪っかになっていて、その先にはまだ長い紐が続いていた。しかし肝心の犬の姿は、見ることができなかった。
―――犬を探してみよう。駄目でもともと、ってことで。
もしかしたら、その犬の存在が何かを意味しているかも知れない。春駒は、さっき見た左手の革の紐を強く頭の中に呼び起こしながら、もう一度夢を遡り始めた。
*
犬が、興奮しながら手にじゃれついてくる。膝に乗って顔を舐める。
「大樹(たいき)、早く帰って来てよー」
家の中から、女性の声が聞こえてきた。
「う〜ん」
「美樹(みき)も探して来てー」
「う〜ん」
大樹と呼ばれたのは、どうやら依頼人らしい。美樹というのは、姉妹だろうか。持っていたリードを首輪につけながら、大樹は適当に生返事を返した。
「よしよし、今行くからな」
大樹は犬の頭をぐしゃぐしゃと撫でてやると、リードを持って自転車に跨がった。夕方の散歩に行くらしい。
犬はさらに喜んで、大きくジャンプをしながら腕まで舐める。大樹の中にお邪魔している春駒は、ちょっと引いた。実は、春駒は犬がちょっと苦手なのである。
春駒は、大概の動物は好きだし、猫は大好きである。犬も嫌いではないのだが、あの動きの忙しなさと犬特有の匂いが気になって、あまり積極的に触ろうとはしない。特に小型犬の落ち着きのなさと匂いは、結構苦手なのである。
ところが、大樹が今散歩に連れ出そうとしている犬が、よりによって春駒の苦手なタイプなのであった。
こんな小さな犬を、自転車に乗りながら散歩させて平気なのだろうかと春駒は心配していたが、この犬はやたらと元気でよく走ったし、大樹もスピードを調節しながら走っているので大丈夫のようだ。
と思ったら、犬は急にスピードを落としたかと思うと足を止めてしまった。
どうするのかと思っていると、大樹は犬を抱き上げ、自転車のカゴに入れて走り始めた。
―――これ、散歩になってるの?
疑問を感じた春駒だが、まあ、飼い方は人それぞれなので、意見を言う筋合いでもない。
そのうちまた犬を下ろして、大樹は散歩を続けた。
「今日はこっちか?」
犬は林に囲まれた小道に向かって走ってゆく。道ばたの草むらに頭を突っ込んでフンフン言いだしたのを見て、大樹は自転車を降り、首輪からリードを外してやった。
用足しらしい。大樹はポケットからビニール袋を取り出すと、飼い犬の落とし物を回収した。
―――まさか、このままずっとお散歩の夢に付き合うのかなぁ・・・
自分で狙って犬の夢を探し当てた春駒だったが、本当にこれで良かったのか、だんだんと不安になってきた。
風景も、あの最初の夢とは似ても似つかない。もしかしたら見当違いのところに来てしまったかもしれず、このまま散歩の夢が続くなら、また違うヒントを探さなくてはいけない。
そんなことを考えて、春駒はちょっと気を逸らしていた。
犬は気ままに草むらを徘徊し、大樹はその後をぶらぶらとついてゆく。
「チャンク、もうそろそろ帰ろうよ」
この犬の名はチャンクと言うようだ。ずいぶんと、洒落た名前をつけたものである。
チャンクは大樹の呼びかけになど耳もかさず、道をどんどん奥に進んでいく。と、急に上を向いて、激しく吠え始めた。
「何だよ、どうしたんだよ」
チャンクは身体を震わせて、うなり声をあげている。チャンクは木の梢に向かって吠えているようだ。大樹はチャンクの視線を辿って木の上を見たが、
「どうした?何もいないよ」
そう言ってチャンクのお尻を押して先に進ませた。
大樹には見えなかったのかもしれないが、春駒にはちらっとだけ、見えた。猫の亀が、かなりムッとした顔でチャンクのことを睨んでいる姿が。
―――あんたがいるってことは、この夢にいていいわけね?
一方的に吠えられた亀は可哀想だが、春駒は少し、安心した。
そう思った途端、今度は大樹が自転車を引きずりながら走り始めた。正確に言うと、チャンクがもの凄い勢いで走り始めたので、大樹が慌ててその後を追い始めたのだ。
「こら〜、チャンク、待て待て!」
大樹の制止など全く聞く耳持たず、といったように、チャンクは小道をダッシュしていく。大樹は自転車を道の端に寄せて木に立てかけると、リードを持って同じくダッシュした。
チャンクを追って小道を抜けると、急に視界が開けた。
***
―――また来ちゃった・・・
春駒は、がっくりきてしまった。チャンクを追って大樹がやって来たのは、先ほどから散々舞い戻った、あの白っぽい地面の広がる場所だった。
だが、もう少し風景が込み入っている。切り立った岩の壁が周りを囲み、その上には木が見える。数メートル先は崖のようになっているのか、地面が切れている。
その先に、大きな砂利の山とサイロのような大きな容器、そしてベルトコンベアのお化けのような、細長くて四角い棒のようなものが見えた。
さっきの場所とは微妙に違う。というより、たぶんこちらがオリジナルで、殺風景なほうの景色は、この風景の中の印象の強いものだけが強調されているのだろうと、春駒は推測した。
チャンクは、数メートル先の地面が切れているところで、またもや激しく吠えていた。尻尾を身体の下に入れ、耳を後ろに倒している。何かに怯えているようにも見える。
「何だよ、どうした?チャンク」
大樹はチャンクの側に寄り、崖下を覗き込んだ。
黒いものがあった。夕暮れ時で、よく見えない。大樹はよく見ようと、少し場所を変えて覗き込んだ。
白い、足が見えた。
*
「あ、足だ・・・!」
大樹は全身に鳥肌を立て、ちょっと後ずさった。しかし、恐いもの見たさだろうか、大樹はもう一度身を乗り出して覗き込んでみた。
すると両手をついていた崖の先端が崩れ、支えを失った大樹の身体は、そのまま頭を下にしながらズルズルと滑り落ちていく。
「うわわわわ!」
掴まることができるような出っぱりもなく、大樹はそのまま黒いものの側まで滑り落ちてしまった。
崖の下は大きな凹みがいくつもあるようで、それぞれに水が溜まって池のようになっている。大樹が落ちてきたところにも、そのまた左右にも水たまりがあった。
大樹の目の前に、白いふくらはぎと、それより白い靴下が、夕闇の中でぼうっと光っているように見える。
人間の身体であることは、間違いがない。
大樹は少し後ずさると、
「もしもし」
蚊の鳴くような声で話しかけてみた。
死んだ人なら気味が悪いが、もし生きている人なら、助けてあげなくてはならないだろう。大樹がそう思って声をかけているのが、春駒には感じられる。
しかし、春駒にはわかっている。目の前に横たわるこの物体が、もう動くことはないということを。
―――早く上に上がって、誰か呼んで来ようよ。
大樹はちょっとずつその黒いものに近づきつつある。顔を確かめるつもりだ。死人の顔など見ない方がいい、春駒はそう思うが、大樹の中にお邪魔しているこの状態では、何のアドバイスもできないし、大樹の行動を止めることもできない。
「あの、大丈夫ですか」
大樹はもう一度声をかけると、四つん這いのまま、黒いものの頭側と思しきほうに廻り込んだ。
「み、み、みき」
黒いものは、大樹の知った顔だった。春駒の中に、大樹の混乱した記憶が流れ込む。
遊園地や公園、学校の体育館、そんな場所で、大樹と美樹は一緒にいる。前後する記憶の中から美樹についての情報を拾っていくと、美樹というのは、大樹の双子の姉らしいことがわかった。
目の前の美樹は、きっと制服だろう、黒とも紺ともつかないブレザーの襟が顔を半分覆っている。そしてそのこめかみから首の方にかけて、べったりとした黒い液体が流れた跡が見えた。
顔も首も、よく見ると手首にも、擦れたような傷がついている。美樹は、まるで何かから身を守るように、身体を丸めて転がっていた。
それに気づいて、春駒は体中の血が逆流してしまうかのような怒りを覚えた。美樹の右の足首に、下着が引っかかっているのだ。
赤ん坊でもあるまいに、片足だけ下着に足を突っ込んで出歩くわけはない。誰かが、この少女を襲ったに違いない。
できれば大樹には、このことを知って欲しくないと春駒は切に思った。
「み、み・・・」
大樹は思考がストップしてしまったようだ。動くこともできず、目を逸らすこともできず、ガタガタと震えている。
チャンクは、相変わらず崖の上で吠え続けている。ここまでは降りて来られないようだ。誰かがチャンクの声に気づいてくれればいいのだが・・・
ふと大樹は、美樹の頭の側に転がっている石に注意を向けた。春駒の視点も、同じようにその石に注がれる。
石には、きっと美樹の血なのだろう、べったりと黒いものがついている。その黒いものは、変な形に掠れていた。
―――あ、触っちゃ駄目だよ!
大樹はその石に顔を近づけると、ちょっと転がしてその掠れをよく眺めた。
その掠れは、人の指の形をしていた。
「わ、うわあああ!!!」
大樹は叫び声をあげ、その石を振り払った。石はごろりと転がって、左のほうにある水たまりへと落ちた。
―――大変!証拠が落ちちゃった!
石はまだ、浅いところで留まっている。しかしゆらゆらと水が動いて、今にも水たまりの真ん中の方へと落ち込んでいきそうだ。
「春駒さん、手を伸ばしなさい!それを掴んで!」
どこからか、亀の声が響いた。
それと同時にザザーッと砂が崩れてくる音がして、大樹の身体は後ろから羽交い締めにされた。
「お前もわざわざ見に来たのかよ」
振り回されて地面に押し付けられた大樹を覗き込んでいたのは、一人の男だった。
右目の下に、涙ぼくろがある。だいぶ若いが、間違いなくあの「石を探して欲しい」と言ってきた依頼人だった。
*
―――何でこの人がここに・・・?
春駒は混乱している。大樹ももちろん、パニック状態だ。
「今の石、どこにやった?どこに転がした?」
両手で大樹の首を締め上げながら、男は凄んだ。
―――探して欲しい石って、さっきの石のことだったの?!
そういえば、ここの風景の中にあったサイロのような容器や、ベルトコンベアのお化けのような機械は、石や砂を選別したり保管したりするものだ。個々は採石場なのだと、春駒は今更ながらに気づいた。
あの石は、殺人に使われた石だ。つまり、この男が美樹を襲い、殺した張本人ということか。
大樹はすくんでしまって、男の質問に答えることができない。
「早く言えよ。あれがここにあると思うだけで、眠れないんだよ」
男は大樹の身体を揺さぶって、さらに凄んだ。
「春駒さん!そいつの左の手首!」
どこからか、亀の声が聞こえてきた。
―――左の手首?何?
意味がわからないが、男の左手首を見てみる。
―――あ!
この夕暮れ時にも関わらず、春駒にはしっかりと見えた。
男の左の手首には、髪の毛が一本、巻き付いていた。
「それを取って!早く!」
亀の声に被さるように、チャンクの唸り声が聞こえてくる。亀はチャンクの側にいて、威嚇されているのかもしれない。
―――取って、って言ったって、どうすればいい?
戸惑っていると、亀がフーフー言っているのが聞こえてきた。チャンクとケンカを始めたのだろうか。
「早く言わねえと、絞め殺すぞ、コラ」
男は男で、大樹の喉を締め上げてくる。春駒は男の手首に巻かれてある髪の毛をじっと見つめると、手を伸ばしていった。
大樹の手が、男の手首に伸びる。春駒が思うように、大樹の指が髪の毛を探り当てる。春駒にとっては、初めての経験だった。
大樹の指が髪の毛を掴み、思い切り引っ張った。髪の毛はプツンと切れ、男の手首から外れた。
男の身体から一瞬、力が抜けた。その隙に大樹は、男の身体の下から這いずり出て、後ずさった。
男がゆらゆらと立ち上がる。その姿に重なるように、陽炎のようなものが揺れている。
上から砂が崩れてきて、それと一緒に茶色いものが落ちてきた。
「諦めなさい」
上から落ちてきたのは、亀だった。
「あまり長い時間、拠り所を身体から離すのはいいことじゃないですよ」
「だったら、返してもらう」
男の声に重なるように、女の声が響いた。
「そうはいきません。あなたはその人から抜けるしかない」
「返せ!」
そう言って男とその周りの陽炎が、こちらに向かって大きく踏み出した。亀が大樹を守るように、間に割り込む。
するとまた砂が崩れてきて、今度はチャンクが足を踏ん張りながら滑り落ちてきた。
チャンクは亀の存在を無視して、男と対峙した。
「チャ、チャンク!」
チャンクは身を低くして、牙を剥きながら身構えた。身体から振り絞るようなうなり声をあげて、全身で威嚇する。
飼い主を、守ろうとしている。その剣幕に、男と陽炎は一瞬立ち止まった。
「他の夢渡りの仕事にケチをつけるつもりはさらさらありませんが、わたしは自分の夢渡りの仕事が邪魔されるのを好みません」
男と陽炎がチャンクの出現に気をとられた隙に、亀は大樹の手から髪の毛を取り上げて後ろに飛び退き、髪の毛を前足で地面に押さえつけた。
「自ら去るか、わたしが手を下すか。どちらを選びますか」
男と陽炎は、躊躇している。亀が髪の毛を持っていることが、どうやら彼らにとっては拙いことらしい。
「さあ、もう時間がないですよ。あなたが決断しないなら、わたしはこれを処分するだけです」
チャンクが、また吠えた。陽炎が男から少し離れ、亀に向かって手を差し伸べてきた。
「ま、待って」
陽炎が揺れながら、女の顔形を作る。春駒よりもずっと年上に見えた。
「わかったわ。帰るから、それを返して頂戴」
そう言いながら、陽炎は男と一緒に近づいてきた。そしてフッと嗤ったかと思うと、大樹に向かって飛びかかった。
「さあ、早くそれをこっちに寄越せ!このまま締め上げれば、あんたの大事な夢渡りも一緒に死ぬよ」
大樹の首に腕を廻し、強く締め上げながら男と陽炎は亀を嘲笑った。
夢の中で首を絞めて、実際に死ぬのだろうか。大樹も自分も死ぬのだろうか。春駒はそんな疑問を抱きながらも、大樹と一緒になってもがいた。
「どんなやり方をしてきたのか知りませんが、ずいぶんと乱暴な夢渡りを育てあげたものですね」
亀は、男と陽炎にではなく、崖の上の方に話しかけた。崖の上にちらっと二つ、黄色い光が見えたかと思うと、それはすぐに消えた。
「御遣いはあなたを捨てたようです。どうもあなたは、御遣いにもあまり好かれてはいなかったようだ」
亀はそう呟くと、前足で押さえていた髪の毛を口にくわえた。
「か、返して!」
「石はどこだ!」
男と陽炎が、完全に分かれた。陽炎が大樹の背後から、亀に向かって身を乗り出した。
亀はくわえていた髪の毛を、ペロリと食べてしまった。
―――食べちゃった!
春駒は驚いて、亀と陽炎を見やった。
陽炎は、今一度女の姿を形作ると、薄く大きく広がった。
「おおお・・・」
悲しげなうめき声を上げながら、女の陽炎は夕闇の中に溶けていく。
そして男も、急に腕から力を抜くと、
「石を・・・石・・・」
そう呟きながら、地面に吸い込まれるように消えていった。大樹は尻餅をついて、その場にへたり込んだ。
石は、もう水たまりの中に落ち込んで、見えなくなっていた。
「大樹さん、家に帰って、お母さんを呼んできましょう」
亀が優しく大樹に声をかけた。チャンクが大樹に擦り寄ってきて、鼻を鳴らして顔を舐める。
春駒も、もう、チャンクの匂いは気にならなかった。そうやって飼い主を労るチャンクが、愛おしく感じられた。
***
亀と春駒は、重い足取りで待ち合わせ場所に向かっていた。
あの後、春駒は震える大樹にお邪魔したまま、大樹の家まで送り届けてから抜け出て帰ってきた。
美樹が砕石場に倒れていることを知らされた大樹の母親は、台所仕事もそのままに、慌てて玄関を駆け出していった。
春駒と亀が見ていたのは、そこまでである。
「大樹さんは、今回のこと覚えていなかったってことだよね」
春駒は、誰に話しかけるでもなく、独り言のように呟いた。もしちゃんと覚えていれば、なぜ自分があんな夢を見るのか、何を探しているのかをわかっていたはずである。
しかし大樹は、自分の夢が何を意味しているのかさっぱりわかっていない様子だった。
「そうですね。あまりにも衝撃が大きかったので、記憶の容れ物の奥に、ずっとしまい込まれていたのでしょう」
「でも、何で今頃になって夢に見だしたんだろうか」
「たぶん、あの男が石を探し始めたからでしょうね。あの男が見つける前に、どうにかしようと思ったのでしょう」
「う〜ん、じゃあ、何であの男は、今になってあの石を探そうなんて思ったんだろう」
あの男が素知らぬ顔で依頼をしてきたところをみると、罪には問われなかったのだろうか。ずいぶんと若く見えたから、もしかしたらあの事件の当時は未成年で、あの男の犯行だとわかっても起訴されなかったのかもしれないが。
「これは半分以上わたしの推測ですから、事実は全く違うかもしれませんがね」
亀はやや遠慮がちに、自分の考えを述べ始めた。
「あの男が美樹さんを殺したことは、罪には問われなかったんですよ」
「それは推測?それとも事実?」
春駒が口を挟むと、亀は鼻の頭にしわを寄せ、渋い顔で応える。
「あの男と会ったとき、背後に美樹さんがいたんですよ」
「はあ?」
「春駒さんには見えなかったんでしょうが、若い女の子があの男の背中にべったり貼り付いて、恨みと憎しみを纏わりつかせていたのがわたしには見えたんです」
「うわあ・・・」
そんなものが見えなくて幸いだったと、春駒は思った。そんなものを見てしまったら、夜中にトイレに行けなくなりそうだ。
「その子が死んでいるのもわかりましたから、当然、この男が殺したんだと思った訳です。しかも女の子の様子から、こいつはきっと逃げおおせて、その罪を償ってはいないだろうと。そんな男の依頼を、あなたに引き受けさせたくはなかった」
だからあの時、亀はおかしな態度をとって、最終的に依頼を断ったということか。
「だから、半分推測、半分事実ですよ」
「はあ」
暗に、黙って聞いていろと言っているのだろう。春駒は、余計な質問をしないように口をつぐんだ。
「で、あの男、十五年くらい前の話だと言っていたでしょう?」
「そうだっけ?」
春駒はもう、そんな細かい話はすっかり忘れている。
「言っていたんですよ。十五年といえば、この国の法律で殺人の時効が成立する年月じゃないですか。だから今になって、あの石のことが気になってきたんでしょう。あの石には、あの男の手の跡がべったり付いていましたからね」
しかし、あの石は水の中に沈んでしまっていた。もし発見されていたとしても、物証となるかどうか怪しいものではないか。
そんな春駒の疑問を先取りしてか、亀は、
「たとえ立件の証拠にならなくとも、自分の犯罪の証が未だそこに存在しているとなると、気になると思いますがね」
「う〜ん、確かに・・・」
しかし、犯行後の現場にチャンクと大樹が現れ、大樹が石を動かしてしまったことで、あの男には石がどこにいったかわからなくなってしまった、というわけだ。
「実際には、あの男は大樹さんが現れて美樹さんの姿を発見してしまったのを見て、そこから立ち去ったんでしょうね。大樹さんが家に戻ってそのことを誰かに話せば、すぐに大騒ぎになる。そうなったらもう、あの石を探し出して処分したくても、近づくことはできない」
そして十五年間、素知らぬ振りを通して生きてきたのか。春駒は何だか無性に腹が立って、
「今度アイツを見かけたら、夢に入って悪夢浸けにしてやる!」
と息巻いた。すると、
「ああ、春駒さん、そういうことは言っちゃいけませんね。そういうことを考えるようになると、あの夢渡りのようになってしまうんですよ」
亀は春駒を振り向いてたしなめた。
「あ、そういえば・・・」
あの男には、別の夢渡りがお邪魔していた。陽炎のように実体を持たず、ただ男の手首に巻かれていた髪の毛が、夢渡りがそこにいることを物語っていた。
「何なのよ、あいつ」
再三、二人掛かりで襲いかかって来られたので、春駒はあの夢渡りにもむかっ腹を立てていた。
「あの人は・・・ずっと夢を渡っている間に、何か大きな勘違いをしてしまったのでしょう」
亀は、残念そうな口調で応えた。
「勘違い?何を?」
「ほら、ペットと飼い主の関係でも、立場が逆転することがあるでしょう?最初は飼い主がきちんと主としての立場だったのに、いつの間にかペットの方が主導権を握っている」
「あー、ありますなぁ。勝手にご飯食べちゃったりとかね」
「それはまた別でしょう?春駒さんが起きて来ないんだから」
「たまにはゆっくり寝たいのよ」
「そんなことは知りませんよ。とにかく、あの夢渡りと、夢渡りについていた御遣いの立場は、わたしと春駒さんとの関係とは全く違うようでした」
そういえば、崖の上に光るものを見た。あれが御遣いだったのだろうか。
それにしては、自分の夢渡りの一大事にずいぶん遠くにいて、妙だと思っていたのである。
「あの夢渡りは、いつしか自分が他人様の夢を、ひいては他人様の人生すらも左右できると思うようになっていたのでしょうね。他人様の夢を思うように動かすことが、面白くてしかたなかったのでしょう。だから、自分と同じような価値観を持つ人間を好んで選ぶようになったんだと思います」
「同じような価値観、って?」
「他人の人生をいじくり回したり、平気で奪ったりするような人間ですよ。ほら、この前、自分の息子と一緒にどこかへ逃げようとしていた女性(ひと)がいたでしょう?あの女性に入れ知恵をしたのも、あの夢渡りですよ」
「ええ?!」
春駒は、びっくりした。あの件に同業者が絡んでいることは亀が教えてくれたから知っているが、今回のことも同じ夢渡りが関係していたとは、意外であった。
「そんなにこの世界、狭いの?」
「夢渡りなんてことが、そうたくさんの人にできると思いますか?これは特殊技能ですからね、そのうち同業者と会うだろうとは思っていましたけれど、会った相手が悪かった」
亀はちょっと話し疲れたのか、その場に座って顔を洗い始めた。
「あの夢渡りの御遣いは、もう、彼女に言うことを聞かせることができなかったようですね。だから彼女は勝手気ままに依頼を受けて、時には他人様の夢を自分の好きなようにいじくって、それを楽しんでいたんですよ」
「好きなようにいじくるなんてこと、できるの?」
そんなことができるとは、考えてもみなかった。いつも他人様の夢に入っては「そんなことはしない方がいいのに」などと思ってばかりで、春駒自身がお邪魔している夢の中身をどうこうしようなどとは思いつきもしなかった。
「やろうと思えばね。今回だって、大樹さんの手を動かすことはできたでしょう?」
そう言われてみれば、確かに自分が強く思うことによって、大樹の手を動かして、あの男の手首から髪の毛を奪うことができた。
しかし、それがどうした、という気もする。所詮は他人様の夢、醒めればそれぞれに、現実世界の喧噪が待ち構えているのだ。他人の夢をいじくったところで面白いとも思わないし、それで何かが変わってしまったとしたら、その責任をとることはできないじゃないか、春駒はそんな風に思った。
「そういう春駒さんだから、わたしは側にいて安心できるんですよ」
春駒の心を見透かしたように、亀は言った。
「さあ、最後の仕上げに行きますよ」
亀は立ち上がると、待ち合わせの喫茶店に向かって歩き始めた。春駒も、気を引き締めて大きく一歩を踏み出した。
*
大樹は、亀と春駒を見ると、やや悲しげに微笑みながら会釈をした。ここは、大樹に依頼を受けたのと同じ、虎ノ門の喫茶店である。
大樹が美樹の死を記憶の奥に封じ込めている以上、下手に喋って、せっかく封印してある辛い記憶を穿りかえすようなことになっては困る。
何をどう喋ったらいいか、春駒は考えあぐねていた。
「夢をですね、見ましたよ」
先に口を開いたのは、大樹の方だった。
「夢、ですか」
「ええ。忘れていたことを、思い出しました」
亀と春駒は、思わず顔を見合わせた。大樹は涙を浮かべながら、無理に笑い顔をつくって話を続ける。
「信じては貰えないかもしれませんが、本当に忘れていました。酷い兄弟だと思われてもしかたがないですね」
十五年間、ずっとしまい込んでいた記憶が、あの男の出現と春駒がお邪魔したことによって、引きずり出されたのだろう。
むしろ、春駒が夢を辿ったことの方が、影響が大きかったに違いない。春駒と共に自分の夢を辿り、すべてを見たのだ。
「猫のあなたが果敢にでっかい男に向かっているのを、すごいなあと思いましたよ」
大樹は、春駒がお邪魔していた夢を明晰夢として覚えているらしい。
「でも・・・あの夢は、僕の願望が混じっちゃってたみたいです」
「願望、ですか」
大樹はテーブルの上の紙ナプキンを折り曲げながら、
「思い出したんです。実際は・・・僕はあの場にチャンクを残して、家に戻ってしまった。そうしたら、そしたらもう、チャンクは戻って来なかった。どこかに行ってしまって、見つからなかった」
そう言って震える大樹の指は、折り曲げていた紙ナプキンをくしゃくしゃに丸めてしまった。その紙ナプキンの縮こまって捩じれている様が、まるで今の大樹の心臓の形のように、春駒には見えた。
紙ナプキンを握りしめているその指が、あの時自分を助けてくれたのだということも、ぼんやりと思い出した。
「だから、チャンクにもう一度逢えてよかったです」
大樹はすすり泣きながら、依頼とは全く関係のないことを感謝した。
「この夢、どうしますか」
亀が、優しく聞いた。亀にとっては犬は宿敵だが、チャンクのことを悔やんで涙を流す大樹を見て、いい人なんだと感じたのだろう。
「春駒さんが夢を持ち去ることで、あなたがすべてを忘れることもできます」
亀の提案に、大樹は鼻をすすり上げながら首を横に振った。
「い、いえ・・・ずっと、ずっと忘れてたから・・・だから、もう忘れません・・・忘れてて、ごめんなさいを言いたい・・・」
そう言って大樹は、人目も憚らず泣き出した。
双子の姉妹だった美樹のことも、可愛がっていたチャンクのことも、十五年もの間思い出さずにいたことが、自責の念となって大樹を苦しめているのだろう。
「あなたのせいではありませんよ。そんなに自分を責めないことです」
亀はテーブルの上に飛び乗ると、大樹の手の甲に落ちる涙を舐めてやった。
「どうしても苦しくなったら、またご依頼ください。何か手助けができるかもしれませんから」
すべてを忘れることよりも、忘れずに苦しみを受け止めるほうを選んだ大樹のために、いつでも役に立ってやりたいと亀も春駒も思った。
そして二人は、大樹をその場に残して店を出た。
*
「チャンクは、どこに行ったんだろうね」
散歩している大きな犬を見ながら、春駒は言った。もうすぐ夜明けだ。ビルの間に吹く風は、肌を切るように冷たい。
春駒は襟元をかき合わせて震えた。
「・・・すべてがわかるより、わからないまま、希望をもっていたほうがいい時もありますから」
亀も冷たい風に身をすくめながら、謎めいた答えを返した。何か知っているのかもしれない。でも、もう春駒は聞き返さなかった。亀の言う通り、何もかも知ってしまっては、希望を持つ余地がなくなってしまう。
それがたとえ、儚い希望だったとしても。
「もしかしたら誰かに拾われて、もっと美味しいもの食べて、幸せかもしれないもんね」
「そう、そう思うことにしましょう」
「亀、お腹空いてる?」
春駒はそう言って亀を抱き上げた。
「空いてます。起きたら、鰹節もサービスしてくださいね」
「この贅沢もの!」
春駒は、亀の首筋に鼻をつけて暖をとった。猫の身体はふかふかして、まるで羽根布団のようだ。
「たまには、サービスしようかな」
そのまま春駒は、亀の背中に吸い込まれるようにして眠りについた。
***
寝ぼけ眼で新聞を取りにいき、新聞をもったまま、再び布団の中に潜り込んだ。今朝は、やけに冷え込んでいる。
新聞の見出しには、最近起きた殺人事件の容疑者逮捕の文字が躍っていた。
「やっと捕まったんだ」
布団の中から手を伸ばして、テレビのリモコンを探し当てる。スイッチを入れ、ニュース番組にチャンネルを合わせると、ちょうどそのニュースが報道されていた。
容疑者が連行される場面が映し出されている。
「亀!亀!ちょっと見て!」
驚きのあまり、布団をはねのけて起き上がり、その勢いで転がった亀を抱きかかえ、テレビに見入る。
「ねえ、こいつ、こいつだよねぇ!」
連行される男の顔は、まぎれもなく、あの男だった。涙ぼくろも、ちゃんとある。
「亀・・・あいつ、逮捕されたよ」
これがきっかけで、過去の犯罪も暴かれることになるかもしれない。そうしたら、大樹の心も、被害者の美樹も、少しは安らぐことができるかもしれない。
今の亀はただの猫で、何を言っても言葉を返してはくれない。だが、きっと亀も同じように思ってくれるだろう。
「鰹節、あげようか」
亀は腕の中で、ゆっくりと伸びをした。
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