夢みどき
大洗藍司(おおあらいあいじ)
今日は木枯らしもなく、暖かな陽射しが頬に当たる。小春日和とは、こういう日を言うのだろう。涼子は道端 で立ち止ま り、オーバーを脱いだ。
――久しぶりにいい天気。予報では、午後から下り坂で冷え込むと言っていたけれど、本当かしら。
そんな、せっかくの暖かい日なのに、彼女は雪の夢を見ようとしている。店は、駅から五分ほどの、繁華街の一角にあった。
受付室に通されると、中にいた白衣の中年男性が、コンピュータの画面から顔を上げた。
「いらっしゃい。初めてですか?」
「はい。あの、お医者様ですか?」
「いえいえ。私が白衣を着ているから、そう思った? 私はここの店長で、医師免許など持っていませんよ」
笑うと目元にしわができて、人懐っこそうな顔つきになる。どことなく狸に似ている、と言っては失礼か。
「当店のシステムはご存じですか?」
「おおよそのところは」
「では、簡単に説明します。当店では、お客様に選んでいただいたストーリーを脳波と同じ波長で送ることで、お客様に夢を見ていただきます」
これは、日本のベンチャー企業が開発した《夢見途機》(ゆめみどき)という装置で、日本内科医師会から身体への影 響なしとの見解が出されたのを機に、昨 年販売が開始された。
「ですが、日本精神医学会では意見が割れて、今でも公式見解が出ていません。それを考慮したうえで、夢見途機(ゆめみどき)を使われることに同意されます か?」
「精神に障害は起こらないんですね」
「当杜の試験結果から、現在の医学でわかる範囲では問題なしと考えています」
「では、使ってみます」
涼子は上京してこの方、後味の悪い夢しか見た覚えがない。会社が面白くないせいだろうか。この就職難の時代、勤め先が見つかっただけでもありがたいと思 わねばならないが、今の仕事に興味はわかず、何かにつけ内輪で固まる同僚たちにとけ込むこともできなかった。だから先日会杜でスキーツアーが企画されたと きも、涼予は参加を断った。だが、行かないとなると、無性に雪を見たくなる。
「どんな夢にします?」
「雪を体感できるような夢」
「雪ですか。スキー旅行がありますが、これなんか如何です?」
「スキーはちょっと……。私は南国育ちで、上京して二年になりますが東京も雪が降らなくて。だから、スポーツとか、そういうものじゃなくて、ああ雪だな あって思えるような夢を見たいんです」
スキーツアーを断ってスキーの夢を見に来たのでは、何とも惨めだ。
「難しいリクエストだなあ。キーワードに《雪》が入って、スポーツを除外するとなると、一本だけですね。ええ と……」
店長は画面を見たまま、しばし黙り込んだ。
「うーん。お薦めとは言い難いな。楽しい夢になるかわかりませんよ」
「はい」
「雪の中にいるという、それだけの内容。癒しをテーマに静かな基調。映像で言えば、映画と言うより環境ビデオ。作者から、はっきりしたストーリー展開がな いので、面白い夢になるか暗い夢になるか、本人の精神状態によるのではないか、とのコメントがあります」
「それで緒構です。雪さえ出てくれば楽しい夢になると思います」
そうは思っていなかった。雪を見たくなったのは、現実逃避であろうと自覚している。とすると、楽しい夢が見られるだろうか? けれど他にソフトがないの では仕方がない。
指定された部屋に入り、用意されたパジャマに着替えると、装置を頭にかぶってベッドに横になった。
本を読むのに、今日は適しているとは言い難い。寒いし、少々暗い。空には灰色の分厚い雲が垂れ込めている。けれど、昼問だけあって暗すぎるわけではな く、風がないので寒さもそう気にならない。
東京に知り合いのいない涼子は、いつしか屋外で本を読む趣味を持つようになった。今日も公園のベンチで文庫本を読んでいる。頁をめくろうとすると、手の 甲に白いものが付いているのに気がついた。
――雪? 雪が降ってきたのかしら?
でも、手の雪はなかなか溶けない。よく見ると花びらだった。小さな、白い、花びら。
と、目の前を白い花びらが一つ、ゆらゆらと落ちてきた。また一つ。
頭上を見ると、満開の桜があった。真っ自な花を咲かせ、灰色の雲をバックに、薄い輝きを放っていた。
――こんな真冬の、こんなに寒い日に、満開の桜なんて……。涼子は文庫本を閉じ、しばらく桜を見上げていた。降り落ちる花びらは、その量を次第に増やし てゆく。そのとき、むき出しの腕に鈍い冷たさを感じた。
――雪? 今度こそ、本当に雪? 上から白いかけらが降ってくる。花びらと雪。同じくらいの大きさで、薄い輝きを持って降るのが桜の花びら、その輝きに 冷たく映えているのが雪。花びらと雪が混ざりながら、さらさらさらと降っていた。
さすがに雪国の夜道は美しい。涼子は、人っ子一人いない田舎道をゆっくり歩いている。
昨日の夢見途機は、充分に満足のいくものだった。常識で考えれば、真冬に桜が咲くはずも、その時期に半袖になるはずもないのだが、夢の中では不思議に思 わず、ただただ感動していた。その感動が目覚めてからも続いていたのだろうか、無性に本物の雪を見たくなった。触りたくなった。思わず新幹線に飛び乗り、 タ方、これといった観光名所もない、山中山の田舎町にたどり着いた。
雪が見たくて来たと言う涼子に、そんなもんですかねえ、雪などやっかいではあっても、ありがたいもんじゃないんだけどねぇと、宿の女将は眩いたものだ。
タ食前にさんざん雪を堪能してはいたが、窓から見える月の冷たさに惹かれて、夜の雪道を散歩したくなった。
「なにもこんな夜中に、雪を見に行かなくても。明日の朝でも見られるに」
でも、どうしても行きたかった。
「玄関の鍵は開けておきますから、帰ってきたら声をかけてください」
門限を過ぎているにもかかわらず、女将は優しく送り出してくれた。
外は、雪が月の光を反射して、思いのほか明るかった。人家や畑は一面に雪が積もって明るく輝き、除雪された道に闇が集まっている。光と闇のコントラス ト。これも雪国の風物詩なのだろう。
今夜は満月だろうか。まん丸の青白い月が、こぼれ落ちそうな星と共に輝いている。冬の月は、どうしてこんなに冷たいのだろう。夏の月が暑そうには見えな いが、冬の月は間違いなく冷たい。中秋の名月の、温(ぬく)もりのある艶やかさとはまた別の、気位の高い冷ややかな美しさ。人を寄せ付けないその美しさ を、涼子は好んでいる。
立ち止まって空を見上げると、冷たい月を中心に、無数の星が氷の破片のように散らばっている。その星々の瞬きの中から、ひとつが地上に落ちて来た。
――星が落る? そんなはずはないわ。では……、雪? 昨日の夢で見た桜の花びらのような。
顔に落ちてくる雪は、月の光を帯びて、きらきらと反射する。月が、星が、雪が、それぞれ光を重ね合う。雪は次第に量を増し、さらさらさらと降っており、 あたりは妖しい輝きに包まれる。月夜の雪は、かくも美しかった。
「如何でした?」
夢を見終わったあと、涼子は再び受付室に来ていた。
「実は、少しばかり心配だったのですよ。いい夢が見られたのか」
涼子は、興奮気味に夢の粗筋を伝えた。
「大満足です。劇中劇ならぬ夢中夢なんて思いもしませんでした。二度目の夢では、夢見途機(ゆめみどき)を使った記憶も、店長さんと話した記憶もあるんで すよ。実生活そのもので、まさか夢の中とは……」
「脳に刺激を与えて夢を見させるので、ストーリーと記億がシンクロされて、夢と現実の区別がつきにくくなることがあるのです。もちろん、荒唐無稽な夢のこ ともあります。何故こうした違いができるのかわかっていませんが、こういう装置ができたからには、おいおい解明されていくでしょう」
気が向いたらまた来てください、必ず来ます、そう言葉を交わして涼子は店を後にした。外は、風はないものの空は薄黒い雲で覆われ、気温は低く底冷えがす る。
――たかだか二時間で、こうも変わってしまうとは。天気予報は当たったわ。
駅に向かって歩き出すと、頬に冷たいものが当たった。
――雪! 雪の夢を見に行った帰りに雪が降るなんて。今日は雪づくしだわ。
立ち止まって、しばらく空を仰いだあと、オーバーの襟を立て、身震いしながら早足に歩き出した。
雪は次第に降る量を増し、さらさらさらと、流れるように降り続いた。
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