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2005年9月13日 (火)

蟲供養(5)

***

 朝日が昇ると、昨夜の自分の騒ぎが馬鹿らしくなった。部屋の中には、何もいない。塔子がベッドから出てからは、あんなにはっきりと見たはずの蜈蚣の大群はどこにも姿を現さなかった。
 部屋に入って、ベッドの下を覗く。何もいない。それからありとあらゆる家具をどかしてみたが、蜈蚣など一匹も見当たらなかった。

 何がきっかけかはわからないが、やはり自分はおかしくなってしまったのに違いない。こう連日、幻覚を見てしまうのは、どう考えても普通ではないだろう。病院へ相談に行ったほうがいいかもしれない。
 だが、一人で病院に行く勇気は出なかった。もしかしたら本当に気が狂ってしまっていて、そのまま病院に閉じ込めらてしまうのではないか、そんなことも考える。
 そうやってあれこれと悩んでいるうちに、塔子はいつしかテーブルに突っ伏すようにして眠り込んでいた。

 携帯電話が震える音で、はっと目が覚めた。部屋は暗くなり、着信を知らせる電話のランプがテーブルの隅で瞬いている。急いで電話に手を伸ばしたが、通話ボタンを押す寸前で電話は切れてしまった。着信は、貴志の自宅からである。
 塔子はすぐにかけ直した。二、三回コールしたあと、電話はつながった。
「もしもし、貴志?何で昨日電話に出なかったのよ」
 やっと連絡が取れたという安堵の反動で、思わず腹立たしくなり、塔子はきつい口調で電話口に向かって声をかけた。
「聞いてるの?もしもし?」
 電話の向こう側は、何も応えようとしない。
「貴志?聞いてる?」
 電話口の向こう側からは、物音だけが聞こえる。受話器を何かで擦るような、ガサッ、ガサッ、という耳障りな音だ。
「もしもし?ねえ、ちゃんと喋ってよ!」
 声を荒げて話しかけるが、貴志は応えない。受話器の向こう側の妙な気配だけが、耳朶を震わせる。
「貴志!ねえ、答えてよ!」
 塔子は泣きそうになりながら、何度も電話に向かって叫んだ。
「ねえ貴志、どうしたの?何かあったの?」
 そこで電話はプツリと切れ、ツーツーという電子音に切り替わった。

 塔子はバッグを取ると、携帯電話を握りながら玄関を飛び出した。何か良くないことが貴志の身に起こっているのかもしれない。助けを求めて塔子に電話してきたが、喋ることすらできない状態なのかもしれない……
 貴志のアパートまでは電車を二本乗り継いでいかなくてはならず、三十分くらいはかかる。塔子は逸る気持ちを抑えながら、車窓の景色を目で追い続けた。
  
 アパートの側の駐車場には、貴志の車が停まっていた。やはり貴志は、家の中にいるのだろう。塔子は足を速めて、アパートに向かった。
 貴志の部屋は、一階の一番奥にある。貴志の部屋のポストから、いくつもの新聞が舌のようにはみ出しているのが廊下からも見えた。
 インターフォンを押した。しばらくそのまま待ったが、中から玄関に近づいてくる気配はない。繰り返し押してみるが、返答はなかった。
「貴志?わたしよ。いるんでしょ?」
 ドアを拳で叩きながら、何度も声をかけた。ドアノブをガチャガチャと動かしてみたが、鍵は閉まっている。二日分ほどたまった新聞をポストから引っ張り出そうとしたが、つかえているらしく抜くことができなかった。

「貴志、鍵を開けて」
 塔子はドアの前にしゃがみこんで、新聞紙で塞がれているポストの隙間から、部屋の中に向かって声をかけてみる。もしかしたら、部屋にいないのだろうか。
 携帯で貴志の部屋に電話をかけてみると、すぐにツーツーという音になってしまう。今度は貴志の携帯電話にかけてみると、部屋の中から着信音が微かに聞こえてきた。が、何回かコールすると、留守番電話に切り替わってしまう。
 そのとき、部屋の中で何かが動く気配がした。
―――よかった。やっぱり部屋にいたんだわ。
 塔子は立ち上がると、ドアが開くのを待った。ドアの向こうで、ガサガサと音がする。ドアに何かがぶつかる音がする。
「貴志、大丈夫?具合が悪いの?」
 ポストの隙間から声をかけて励ます。すると、ポストに挟まった新聞が少し動き、横の隙間から何かがスッと出て、すぐに引っ込んだ。そして、物音がしなくなった。
「ねえ、どうしたの?鍵を開けてくれなきゃ、どうしようもないわ」
 もう一度声をかけてみる。だが、返答はない。塔子はもう一度しゃがみこむと、ポストに顔を近づけて中を覗こうとした。
 にゅっ、と黒い棒のようなものがポストから突き出てきた。それは新聞の横の隙間から伸びて、塔子を捕らえようとするかのように空を掻いた。
 刺が生え、先端は小さく湾曲したかぎ爪になっている。根元に向かって太く平たくなった黒いそれは、虫の脚にしか見えなかった。黒い脚は、ドアの外側を探って動くたびに、外廊下の薄暗い蛍光灯を鈍く反射させている。
 ドアの向こう側から、ガサッ、ガサッ、という音がする。ガチャガチャとチェーンを外そうとする音がする。ドアノブが、激しく左右に動いている。

 塔子は息を呑むと、貴志の部屋の前から走り去った。中から出てくるものを、見たくない。ドアの向こうにいたのは貴志ではない。
 通りかかったタクシーをつかまえて、塔子は自分のアパートに駆け込んだ。サンダルを脱ぎ捨てバッグを放り出し、台所の蛇口を捻る。コップに何杯もの水を飲み、シンクにしがみついて塔子は泣いた。
 勢いよく水を飲んだせいだろうか。喉と胃の辺りがイガイガと詰まるような感じがして、吐き気がこみ上げる。涙をこぼしながら塔子は吐いた。
 シンクの中に、水と一緒に黒いものが吐き出される。楕円形の黒いものは、シンクの中を動き回り、排水口へ這いずってゆく。蜚?(ごきぶり)だ。
 また吐き気が襲い、驚きと恐怖で目を見はりながら、塔子は吐き続けた。胃の中が空っぽになり、何も吐くものがなくなっても、嘔吐感は消えなかった。
 喉の壁で、胃の中で、ちくちくと何かが動いている。その気配は腹のほうへ下がり、臍の下で蠢いている。じくじくと腸が食い破られ、皮膚の下に這い出してくる。
 皮膚一枚の下を、楕円形の盛り上がりが這いずり回る。肉と皮膚の間を、ぞわりぞわりと引き剥がすように虫が進む。シンクに吐き出した蜚?(ごきぶり)も流し台を伝って這い出し、塔子の身体に取りついた。
 ベッドの下、本棚の後ろ、タンスの隅、部屋中のありとあらゆる暗がりから、黒い虫たちが這い出てくる。振り払っても振り払っても、刺のついた脚で纏わりついてくる。
  
 塔子は玄関を飛び出した。開け放ったドアから、虫たちは塔子を追ってくる。道の排水溝から、マンホールから、黒い塊が溢れ出して行く手を塞ぐ。
 皮膚を食い破って、身体の中から虫が這い出す。這い出した穴から、新たな虫が入り込んで内臓を喰らう。傷口から流れ出た体液が足を伝い、ベタつく足の指にも虫が取りつく。
 髪の毛の中に入り込んだ数匹が、今度は顔を襲う。手で振り払うと、手の甲に取りついて腕を伝い這い上ってくる。地面に足をつくたびに、足の裏でパリパリという音がする。蜚?(ごきぶり)のすべすべした羽を踏み潰す音だ。
 歩道橋を上る。車道に溢れた虫たちは、車に踏みにじられて潰れた。それでも虫たちの数は減るどころか、さらに塔子に向かって集結してくる。
 左目の中に、二本の糸が見えた。緩やかな弧を描いて、左右に揺れている。それは目の中を動き回り、ぐるりと回って瞼の内側に入り込んだ。プツリと音がして、左目が見えなくなった。頬に、虫の足の感触が伝う。必死でそれを振り払うと、ずるりと湿ったものを引きずって落ちていった。
 顔に手を当ててみる。指が、左目があったはずの窪みに嵌まり、その指を伝って次々と虫が這い出してきた。
 塔子は絶叫した。歩道橋の手すりによじ上る。道には黒い虫が溢れ、足の踏み場がない。歩道橋の下は運河だ。駅ビルの明かりを受けて、水面は滑らかに光っている。
 その柔らかな光に向かって、塔子は跳んだ。

***

 塔子は目を開けた。全身にびっしょりと汗をかいている。白い天井と、薄青いカーテンが目の端に映った。
 あの夜から、どれくらい経ったのだろう。塔子はぼうっとしながら考えた。食べ物が虫に見えたことも、ベッドの中が虫だらけになったのも、貴志の部屋で見たことも、自分の身体が虫に喰われてしまったことも、すべては幻覚だったのだろうか。
 そう、塔子の身体は固定されてはいるものの、何の異常も感じられない。両目できちんとものを見ているし、痛みひとつない。
 こうやってきちんとものを考えることができるのだから、狂っているとも思えない。疲れていて、悪い夢を見続けていただけなのかもしれない。

 塔子は安心して、またうとうとし始めた。ここにいれば、もう怖くない。貴志も、そのうちお見舞いに顔を出すに違いない。
 カチャカチャと金属の触れ合う音がする。看護士が持っているトレーからしてくるようだ。もう一人、白衣を着た男性がいるのが見える。医者だろうか。
 半分閉まっていたカーテンが開かれて、白衣の二人がベッドの側に立った。塔子は顔を横に向けて、二人のほうに視線を向けた。
 二人は両手をだらりと脇に下げ、口を開けている。
 開いているのは口だけではなかった。双眸があるはずの場所には、眼窩がぽっかりと暗い穴を開けている。
 看護士の左目、その黒い穴から、何かがぞろりと這い出てきた。長い触覚をゆらゆらと動かしながら這い出たそれは、刺だらけの足で看護士の頬を伝い降りようとしている。
  
 塔子は絶叫した。両手足はベルトに阻まれて、持ち上げることすらできない。逃げる場所は、どこにもなかった。

                                                (了)

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コメント

恒例の「シュレ猫文章倶楽部」は9月も新宿の某秘密クラブで開催された。
提出作品は藤薫氏の「蟲供養」のほかに真鍋氏の「電車」(冒頭部分のみ)、「八月の感想文」、野島氏の「あこがれ」、大洗氏の書評などがあった。

「蟲供養」については、以下のような意見が出た。

竹内「終わりで供養の秘密が明かされなかった点に不満が残った。なにかおどろおどろしい理由のようなものを期待していたため。だが、書き出しから途中までの筆はこびは短編ホラーと不条理小説として成功している。ラストについては推敲したほうがいいのではなかろうか」

マル太「終わり方は、必ずしもオチがつく必要はないと考える。したがって、いまのままで充分に成立しているのではないだろうか」

大洗「竹内氏と同じく、ラストに疑問が残った。秘密が明かされないと気持ちが悪い」

野島「あまりの気持ち悪さに途中で読めなくなりました・・・う、トイレ行かせて(退出)」

Φもと「気持ち悪くて、途中で、もういいや、と思ってしまった」

竹内「短編の終わり方としては、いわゆるオー・ヘンリー型の劇的なオチを期待する読者と、そうでなく、チャイコフスキーの悲愴のような自然消滅型でいい人に分かれると思う。そのどちらにするかは作家の決断ということだろう。個人的に、現在のラストは、長編のプロローグのような印象を受けた」

投稿: 竹内薫 | 2005年9月13日 (火) 21時02分

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