蟲供養(2)
***
事の始まりは、先週末の深夜のドライブだった。付き合いはじめて半年の貴志(たかし)と一緒に食事をし、その後、目的地も決めずにドライブに出た。車の好きな貴志は、そうやってあてどなく車を走らせるのが好きなのだ。
だが、最初はほろ酔い加減で気分よく出たものの、飲酒の検問を避けて国道から脇道に逸れたのがきっかけとなり、道に迷ってしまった。
塔子はもともとあまり車を運転しないので、道には不案内だ。だから貴志が帰り道を見つけてくれない限り、どうしようもない。一方、貴志のほうは道を見失ったことを楽しんでいるかのようで、
「日本はどうせ島国なんだから、どんなに迷ったって外国に行っちゃうわけじゃねえし」
などと、呑気に構えている。
しかし、さすがの貴志も深夜の二時半を回ってくると疲れてきたらしく、イライラとした様子を見せ始めた。道はどうやら、田圃の真ん中を抜ける農道に入ったらしく、行き先表示はおろか、標識ひとつ立っていない。
等間隔に暗い街灯が灯っているのだけが救いで、これがなかったら畦道に嵌まりかねないほどの狭い道路だ。道の左右には、平坦な暗闇がのっぺりと貼り付いている。たまにゆらゆらと影が波打つところをみると、恐らく稲が風に揺れているのだろう。
しばらく真っすぐ進むと、十字路に出た。交差する道の幅は、塔子たちがやってきた道よりやや広く見える。
「よっしゃ。左折しよう」
貴志は十字路を左に曲がった。
「ねえ、引き返したほうがよくない?」
塔子は提案してみたが、
「引き返したってどうにもなんねえよ。大丈夫、こっちが東京方面なのは間違いないから」
貴志は自分の感覚を信じて疑わず、そのまま車を走らせる。
貴志の方向感覚が正しかったのか、田圃の向こうがわにぽつりぽつりと民家が現れはじめた。
「ほら、やっぱこっちに来て正解じゃん」
貴志は自分の予想が的中したので、得意顔ではしゃいでいる。徐々に道は広くなり、農道は突然にして一般道につながった。
だが、相変わらず行き先表示は出てこないし、コンビニも見当たらない。深夜だから当然だろうが、人っ子ひとり見当たらず、民家の灯りもない。まるでゴーストタウンを走っているようだ。
「本当に東京に向かってるの?この道路」
塔子は不安になって貴志に訊いた。
「たぶん、な」
貴志もやはり不安になってきたのだろう、先ほどの勢いが引っ込んでいる。
「電信柱とかよく見てろよ。住所がわかるかもしれないから」
「うん」
番地がわかれば、道路地図で現在地がわかるだろう。
「あー、畜生。こんなときはカーナビ欲しいと思うよな」
貴志はぼやきながら、クラッチから左足を離して膝を立てた。煙草を持った右手は窓の外に出して、片手運転になっている。運転にも疲れてきたのだろう。
「ねえ、暗いからちゃんと見ててよ」
「大丈夫だって」
そう言うなり、貴志は急にアクセルを踏み込んで加速した。
「ちょっと!怖い」
「へへー。怖い?」
先ほどの農道よりは広いとはいえ、車のすれ違いがやっとできるかできないかの道路である。もし対向車が来たらと思うと、生きた心地がしない。だが自分の運転に自信を持つ貴志は、平気な顔でスピードを出し続けている。
「やべえ!」
いきなり貴志はブレーキを踏み込み、サイドブレーキを引いた。塔子はダッシュボードにつんのめり、車は左右に横滑りして止まった。
「何?どうしたの?」
「……人がいた」
「轢いたの?!」
「当たってない。当たった感じ、しなかったろ?」
「うん……」
確かに、車に何かがぶつかった感じはなかった。だが、ブレーキをかけてからすぐに、何かを踏んだような気もする。
「どこにいたの?」
「あの倉庫みたいな建物の前だよ」
貴志は左後ろを指差した。街灯で薄暗く照らされた道路の向こうに、四角く切り取られた影がある。
「……一応、見てくる」
「わたしも行く」
貴志と塔子は恐る恐る車のドアを開け、辺りを見回しながら建物に近づいていった。
人らしきものは見当たらない。うめき声なども聞こえてこない。ただ、虫の声が微かに囁いているだけだ。
建物の前には、なぜか果物や団子が散らばっていた。そして平べったい箱がひしゃげて転がっている。箱の中には白い砂のようなものが入っていたらしく、箱とその周囲にこぼれて街灯の明かりに光っていた。
さらによく見ると、半分焦げた藁束のようなものが散らばっている。藁束は、まだところどころ燻っていた。
「これ、何かのお供え?」
「お供え?お盆だったか、今日?」
どうやら砂を入れた箱に果物を供えて、藁束を燃やしていたようだ。何となく、法事のような雰囲気を思い起こさせる。
建物を見上げると、風雨に晒されてペンキのはげ落ちた看板が斜めにかかっているのが見えた。「虫」と「駆除」という文字だけがかろうじて読み取れる。シロアリ駆除か何かをしていた会社の建物だろうか。
「本当に誰かいたの?」
「そう見えたんだけどさ……」
「一人?」
「いや、二人。ここで蹲ってた。っていうか、土下座してた」
「でも誰もいないじゃない。きっと見間違いよ。まだ酔っぱらってるんじゃないの?」
「そんなわけねえよ。何だよ、脅かすなよな、全く」
貴志は明らかにほっとした様子で、燃え残りの藁束を蹴散らした。
「こんな紛らわしいもん、こんなところに置いておくなよ」
「やめなさいよ」
貴志の子供っぽい仕草を、塔子は笑いながら止めた。とにかく、人を轢いたのではなかったことで、二人とも心底ほっとしていた。
急に、虫の声がぴたりと止んだ。耳が痛くなるほどの静寂が、周囲から押し寄せてくる。
「ねえ、車に戻ろう」
得体の知れない不安を感じた塔子は、貴志の腕をとった。
「あ、ああ」
貴志も何かを感じたらしく、塔子の手を握って車に向かって歩きはじめた。
そのとき、背後から砂利を踏むような音がした。箱からこぼれた砂を踏んだ音だ。貴志と塔子の二人は、驚いて顔を見合わせた。やはり、ここには誰かがいたのか。車にぶつかって跳ね飛ばされ、今頃になって起き上がってきたのだろうか。
また、静寂が戻った。足音も、衣擦れの音も、何もしない。それがかえって不安を掻き立てた。今、誰かが背後に近づいてきたはずだ。なのに声ひとつかけてこない。
貴志と塔子は恐る恐る、ゆっくりと振り向いた。
そこには、作業服姿の男とスウェット姿の女が並んで立っていた。両手をだらりと脇に下げ、口を開けている。
開いているのは口だけではなかった。双眸があるはずの場所には、眼窩がぽっかりと暗い穴を開けている。
女の左目、その黒い穴から、何かがぞろりと這い出てきた。長い触覚をゆらゆらと動かしながら這い出たそれは、黒光りする蜚?(ごきぶり)だ。刺だらけの足で女の頬を伝い降りようとしている。
それを見た塔子は、貴志の腕を引き千切りそうなほどに強く掴んだ。自分の絶叫が耳をつんざく。
「うわあ!わあ!」
貴志も悲鳴を上げると、塔子を引きずるようにして車に戻り、エンジンをかけた。
それから夜が明けるまで、二人は止まることなく車を走らせ続けた。どこをどう走ったのかも、覚えていなかった。朝日が昇り、人の姿を見かける時間になってから、二人はやっと車を止めて仮眠をとった。
「お前も見たろ?あれ、何だったんだろうな」
「……わかんない」
朝が来てしまえば、自分たちの見たものなど、たちの悪い冗談のようにしか思えなかった。
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