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2005年9月23日 (金)

平家の蝶

「平家の蝶」

竹内薫

 もう、かなり前のことになるが、友人の利Qという華道のお師匠さんと一緒に九州山地を周遊したことがあった。利Q師匠は宮崎県のさる旧家の出である。ふだんは東京に暮らしている御仁だが、ミステリーの取材のために、無理矢理説き伏せて、ご同行願ったのである。

 それは、真夏の盛りも過ぎた頃。飛行機で宮崎入りしたわれわれ二人は、電車で日向市まで行って、そこから軽自動車を借りて、九州山地の山奥を目指すことにした。

「竹内センセ、こんな山奥に行くより、シーガイアあたりでパーッと派手に遊びませんか? ゴルフ場もあるしプールもありますよ」

「シーガイアにも行きたいですけどねぇ、椎葉(しいば)と五家荘(ごかのしょう)には歴史のロマンがありますから」

「うーむ、地元の人間には、よくわかりませんなぁ」

 車内の会話はあまり弾まなかった。たしかに、地元の人にとっては、わざわざ東京から飛行機でやってきて、何もない山奥に車を走らせるなど、大いなる時間の無駄としか映らなかったのであろう。

 日向を出るころから曇りがちではあったが、二時間くらい走ったところで雨風が強くなってきた。ラジオをつけてみると、どうやら、大型の台風が宮崎県を直撃するらしい。

「師匠、これも平家の怨念ですかね」

「なにを馬鹿なことを」

「ウチの御先祖は源氏ですから。利Q師匠の御先祖は?」

「もちろん源氏ですわ」

 そりゃそうだ。平家は壇ノ浦で滅びてしまったのだから、現存する家のほとんどは、清和源氏から始まっているのだ。(ウチの場合、戦国時代の後期に勝手に家系図を偽造したことがわかっている。世の中のたいていの家系図は偽物である。)

 宮崎県椎葉村は平家の落人伝説が色濃く残る秘境だ。私はミステリーに使うための「百人一首」の暗号解読に精を出しているうちに、いつのまにか、暗号そのものよりも、その時代背景、特に平家の滅亡へと興味が移ってゆき、さらには落人伝説に魅せられてしまったのである。

 椎葉は九州山地の頂上付近、標高およそ一七〇〇メートルの地点にある。椎葉に近づくにつれ、どんどん道幅は狭くなり、しまいには、ようやく車一台が通れるような細い山道が延々と続くようになる。ガードレールの向こうは断崖絶壁で、その下を小丸川が流れている。

 途中、何度か道に迷ったこともあり、われわれは到着予定時刻を大幅に超過して、殴りつける風雨のもと、ほとんど外燈もない山道を走り続けるはめになった。

 やがて、出会う車もほとんどなくなり、私は、まるで平家の霊に会いに冥界へと旅しているような錯覚に陥った。

 気がつくと、目の前を着物姿の女性が横切った。

「あっ、人だ!」

 私は、急ブレーキを踏んだ。車は雨にスリップし、ガードレールに激突して止まった。だが、外に出てみると、どこにも人影はなく、台風による落石で道が半分ほど覆われていた。私と利Q師匠は、

「気がつかないで石に突っ込んでいたら……」

「竹内センセ、崖から転落していたかもしれませんよ」

 思わず顔を見合わせていた。

***

 利Q師匠から人づてで紹介してもらっていたので、夜半、ようやく宿の「鶴富(つるとみ)屋敷」に辿り着くと、暖かい風呂と酒宴が待っていた。

 椎葉に伝わる落人伝説は、源氏との戦いに破れた平家の残党が、この秘境の地に隠れ住んだ、というものだ。その平家の姫であった鶴富は、のちに、平家追討のために差し向けられた那須与一の弟・大八郎と結ばれることになる。ゆえに、この地にはいまだに那須姓の家が多い。

 敵の娘と結ばれた鎌倉武士の伝説は、どことなくロミオとジュリエットのロマンと重なり、私は、この地に伝わる哀しい「ひえつき節」の調べに耳を傾けながら、八百年前の世界へとタイムスリップしていた。

***

 その後、このときの取材をもとに、『百人一首 一千年の冥宮』という作品を書き上げたのだが、世間は、百人一首の暗号解きや平家の落人伝説になんぞあまり興味が湧かなかったらしく、売れ行きはさっぱりで、担当編集者は社内で切腹寸前まで行った。

 一つだけ、作品に書かなかったことがある。

 それは、台風一過、秋晴れの早朝、車で宿を出た直後のことだった。

「あ、竹内サン、蝶がいますよ」

「え? あ、本当だ」

 目をやると、車の窓ガラスの下に黒い蝶が、うずくまるようにとまっていた。一晩中、車内に閉じ込められていたのだろう。私はふと、昨晩、運転を誤って崖下に転落しそうになったとき、この蝶が平家のお姫さまに姿を変えて私の目の前に現われ、護ってくれたのだと思った。八百年前に平家ゆかりのお姫様が源氏の若武者の命を救ったのと同じようにして。

 私は、車を停めて、そっと窓を開けると、その蝶を外に逃がしてやった。蝶は、しばらくその場で優雅な舞いを見せていたが、やがて、深い草いきれに紛れるように消えた……。

補足:熊本県側の五家荘にも平家の落人伝説が残っており、宮崎→椎葉→五箇荘→熊本という観光ルートは素晴らしいものです。

(月刊「観光」2005年10月号所収)

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