« 失敗作(3) | トップページ | 失敗作(5) »

2005年9月19日 (月)

失敗作(4)

   4

 この軽い買い物袋は私の体の軽さと同じだ。長谷川友美は買い物袋をテーブルに置くと、イカの切り身を取り出した。大根とともに煮ようと考えていた。家族三人で分けたら、こんなイカなんて一口ずつにしかならない。友美はお湯を湧かしながら殺伐とした気持ちだった。
 そういえば、えみはまだ帰っていない。いつもなら、三十分前に帰っていてもいい時間だ。不安が友美を包み込んだ。時間というものは、気にし始めると途端にゆっくりと時を刻み始める。雲のような動きで進んでいく時間は湿気のような不安を連れてくる。
 友美は囚われないとするように大根を切った。包丁とまな板の音が一人の台所に響き渡った。
 ざくり、とん、ざくり、とん、ざくり、とん。ざくり、とん、ざくり、とん。ざくり、とん、ざくり、とん。
 
 嫌な光景が頭に浮かんだ。今日、スーパーで見た光景だった。
 子連れの主婦。あの子供は6歳くらいだった。母親がレジにならんでいるとき、子供はかごの中の商品を取り出してそれを床に落とした。母親はそれをじっと見ていた。子供の体は歪んでいた。友美はは幼い頃に駄菓子屋で食べた、串に刺さって歪んでいる薄いイカのお菓子を思い出した。そんな体だった。子供は、また別のものをかごから出すとそれをまた床に落とした。まるでそれが自分に義務づけられた仕事であるかのようだった。母親は何も言わずに見つめていた。何かが変だ。友美がそう思ったその時、その母親は子供を蹴った。お腹を蹴りあげたのだった。声をあげてうずくまる子供を母親はなおも蹴った。友美は目をそらすことすら出来ずに呆然としていた。母親は何度も蹴った。声をあげていた。いやな声だった。とてもいやな声だった。そして友美はスーパーを逃げ出した。
 あそこで何が起きたのだろう? きっとそれは、あの母親当人にも分かっていないことなのだ。友美はそんな気がした。
 
 えみはまだ帰ってこない。友美は思った。私はえみを愛している。それは確かだ。かけがえのない私の娘だ。えみは奇跡的に、身体的欠陥を持たずに生まれてきた。えみの笑顔にはずいぶん救われた。
 でも、と友美は思った。もしもえみが奇形児だったら、それでも私はえみを愛していたのだろうか。
 そんな自問自答に答えはなかった。それは、起こらなかったことなのだから。 時計は、七時を指そうとしていた。
 おかしい。何かあったんだわ。最近、この団地内で子供の行方不明が増えている。えみも誰かに誘拐されたのではないだろうか。ゆう君が一緒なはずだけど。ゆう君は頭が良いから、大丈夫だと思うけど。けど。
 ドアを見る。今すぐにでも、えみがドアを開けてくれないだろうか。そうしたら、必ず、あの子を抱きしめよう。現実にそれができればどんなに幸せだろう。しかし今はえみはいない。先の見えない未来は意地悪な舌を出して友美の周りを回っていた。
 途端に、友美の体に電流が走った。ドアのチャイムが鳴ったのだった。
 慌ただしく鍵を開け、ドアをあけると、そこには優子が立っていた。
 彼女は友美を見ると気ぜわしく口を開いた。
「あの、えみちゃんと男の子が連れていかれました。車で。私、見ました。警察に連絡した方が良いと思います。車のナンバーは、覚えてます」
 友美には、優子の声がどこか違う世界から響いてるような気がした。白昼夢を見ているようだった。現実は禍々しく歪み、友美は目眩を覚えてその場にしゃがみこんだ。

|

« 失敗作(3) | トップページ | 失敗作(5) »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 失敗作(4):

« 失敗作(3) | トップページ | 失敗作(5) »