ノーと言わせてくれ(1)
「ノーと言わせてくれ」
沙架 りゅう・作
武田勝利は典型的な日本人である。友人も多く信望もあつい。いわゆる極普通の典型的な日本人である。そんな武田にも強いてあげれば一つだけ問題がある。それは中々『ノー』と言えない性格なのである。『ノー』と言わない、いや言えないのは武田の個性でもあるが、仲間との調和を乱したくないという温和な性格からくるものでもある。いわゆる平和主義者なのである。しかし、このことが彼の人生において大変な惨事を招いてしまうことを彼は知る余地もなかった。
武田は身長175cm程度の中肉中背である。T大学大学院を卒業後、宇宙研究所に勤務している。宇宙研究所とは宇宙ロケットの開発から宇宙の解明のための研究を含め、宇宙に関する様々な研究をしている国家機関である。NASAからも共同研究や宇宙開発を含め依頼が来ることもがある。武田の専門は宇宙ロケットの軌道計算やブラックホールの解明などに応用する量子力学や相対性理論等である。武田はここでブラックホールの研究とロケットの軌道計算の研究を手がけている。
ある日、武田はいつもの仕事帰りに夕食の材料を買うため、近くのスーパーマーケットに寄ることにした。今晩の夕食は武田の大好物の一つであるすき焼きにする予定である。
武田はスーパーで夕食の材料を一通り集めた。そしてレジに向かう途中に卵を買い忘れたことに気がついた。
「今日は少し贅沢をして美味そうな卵を買っていこう。」
スーパーの中程の卵売り場でよさそうな卵を選定していた時だった。50歳くらいの中年のおばさんが買い物籠を揺さぶりながら「ドスドス」と武田の横を通り過ぎていった。そのときであった。そのおばさんの持っていた籠が積み上げていた卵のケースを一つ引っ掛けていった。そして、一番上に乗っていた卵のケースが床に落ちた。「バシャ!」卵のケースは床におちた勢いで幾つか割れて黄身が飛び出していた。武田はすかさずその卵を拾いそのおばさんに向かって言った。
「あの、落としましたよ。」
しかしそのおばさんは振り向きもせず「すたすた」と歩いていってしまった。
武田は何度も「すみません、落としましたよ。」とそのおばさんに向かって話しかけたが、いっこうに聞こえないのか、聞こえない振りをしているのか、早足で別の売り場の方にいってしまった。
武田は割れた卵のケースを手に持って途方にくれた目で卵のパックを見つめていた。
「いやー、落としちゃったんですねえ。困りましたねえ。もう商品にならないから買い取ってもらうしかないですねえ。」近くにいた店員が割れた卵に気がつき駆け寄ってきて武田に言った。
「いや、違うんです、私じゃないんです。あのおばさんが・・・」
その時すでにおばさんの姿はもはやどこにもなかった。
「そんなこといわれてもねえ、しょうがないなあ。じゃあ半額割引札を貼ってあげますからレジを通してくださいね。」
「あのー、ちがい・・・」
武田の小さな声が聞こえなかったのか無視されたのか、店員はさっさとレジにむかってしまった。
武田はしぶしぶ割れた卵を抱えレジに向かうことになった。
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コメント
沙架さんは某フランス系ガス会社に勤める博士(物理学)である。
作家志望というわけではなく、面白いから倶楽部に出入りしている(らしい)。
推敲は入っていないので、そこんとこ、ヨロシク。
ほぼ10回にわたって掲載予定也。
投稿: 竹内薫 | 2005年9月22日 (木) 08時51分