失敗作(2)
2
夕まぐれの帰り道は少しだけ肌寒かった。ぼくはえみちゃんの笑い声と小さい白い手に引かれながら、小学校から団地に向かう住宅街を歩いていた。まっすぐ伸びた道路には人も車もなく、ぼくとえみちゃんの影はぼくらの先を歩いた。
えみちゃんの動きは予測がつかない。ぼくを見て微笑んでいたかと思えば、黄色いスカートをはためかせながら道路の端にかけていき、嬉しそうな顔でブロック塀の何かを見つめていた。その視線の先には、ブロックの隙間から伸びている小さな雑草があった。雑草は、風に吹かれて静かに揺れていた。
指でつついたりしながらじっとそれを見つめていたえみちゃんは、足下に落ちいているものを拾い上げたかと思うと口に放り込んだ。ぼくはあわててえみちゃんの口の中に指を入れ、飲み込む前にそれを取り出した。こぶしより少し小さいくらいの丸い石だった。えみちゃんはきょとんとした顔をしていた。
えみちゃんはおかしなことをする。それは時に危険なこともある。えみちゃんは一人で生きていくことができなくて、だから誰かが手助けをしてあげなければならない。だからぼくがそばにいる。
えみちゃんの横顔は薄いオレンジ色に染まっていた。きれいだった。えみちゃんの可愛い顔立ちは奇跡のようだってみんなが言う。ぼくもそう思う。ずっとえみちゃんの顔を見ていたい。一言もしゃべらずに、一日中でも、三日でも、何百年でも、夕まぐれの中で、えみちゃんと二人、どこにもいかなくても、どこに行っても、ぼくはえみちゃんのきれいな目を見ていたい。
えみちゃんはすべてのものに平等で、なんでも笑顔で消かしてしまうから、ぼくは屋根の上の陽だまりみたいな気持ちになる。まるで無条件で、この世界に受け入れられているような、世界を愛し愛されてもいいような、そういう気持ちになる。嫌なことは、全部忘れてしまえばいい。
川口先生に殴られた田中君の怯えた目つきや、おととい嵯峨真弓ちゃんが車に轢かれて死んでしまったことや、これで5人がクラスからいなくなってしまったことや、昨日の夜に家で怒った父さんが椅子を投げてガラスを割ったことや、父さんは常に怒っていて時々ぼくを蹴ったり舌打ちをしたりすることや、母さんがよく気絶して床に倒れることや、これらのことを思い返すと胸の奥が重苦しくなるけど、思い出さないでおこう。
今は、えみちゃんとの時間を体にしみ込ませて、きちんと大事に持って帰ろうと思う。きっとそれは神様がくれた時間の宝物だから。
家々は静まりかえっていた。沈んでいく夕日はこの幸せな時間の終わりを告げ始めていた。帰りたくないけど帰らなければいけない。えみちゃんはえみちゃんの家に帰りたがっている。えみちゃんを無事に届けるのがぼくの役目だ。えみちゃんのお母さんは暖かくて明るい。きっとそのことはえみちゃんのこの幸せな明るさの素になっているのだとぼくは思う。
ぼくはえみちゃんの手をそっと引いて、団地の方へ歩き出した。
このときまでは、確かにいつもと同じ帰り道だった。ぼくとえみちゃんの。
後ろの方から車の近づく音が聞こえてきた。ぼくはえみちゃんを道の端っこに誘導する。車はぼくらの横をゆっくり通り、そのまま通り過ぎるかと思ったぼくの予想に反して、ぼくらの行く手を遮るかのように道端に寄せて停車した。ぼくはえみちゃんの手を引きながら、車と塀の隙間を抜けて先に行こうとした。すると車のドアが開き、中から手が伸びてきてぼくをつかんだ。
「痛い。はなせ」
ぼくをつかんでいる男のくぼんだ目と目が合った。男は目を見開いて言った。
「おい。この子供、言葉をしゃべるぞ」
「いいから早く連れ込め」運転席から怒鳴り声が聞こえた。そのときぼくは思い出した。畠山君と福沢さんと竹村君がしばらく学校に来ていないこと、それからえみちゃんのお母さんが最近いなくなっちゃう子が多いみたいだけどどうしたのかしら、誰かに連れて行かれたのかもしれないから注意してねと言っていたこと。ぼくは足を踏ん張ってわめいた。
「誰か。誰か、助けてください」
「くそ」男は舌打ちをしてぼくを引っ張った。男の力はぼくよりもずっと強く、ぼくは車内に引きずり込まれた。無抵抗のえみちゃんは男に難なくかつぎこまれ、ドアが閉まって車は発進した。
「ぼくらをどうする気ですか?」
震える声を隠そうとしても駄目だった。足も震えていた。
目のくぼんだ男が言った。
「よりによって、しゃべる餓鬼にあたるとはな。お前、一つ目のくせに、知能はまともなのか?」
ぼくはその質問には答えずに男に言った。
「ぼくらをどうする気ですか?車を降りさせてもらえないですか?もし今降ろさせてくれたら、ぼくは誰にも言いません」
「ふん、お前、取引をしているつもりか?なるほど知能は高いらしいな。おれは頭がまともな餓鬼は初めて見るぞ。そっちの子はガールフレンドか?」
男はえみちゃんの方を見た。えみちゃんは車の外を見てにこにこと笑っていた。
「その女の子は正常に知恵おくれなようだな。顔は可愛いが。お前ら、知恵おくれと奇形児のカップルか。おい、俺たちはどうやら支え合っている二人をさらっちまったようだぜ」
くぼんだ目の男は笑いながら運転席の男に言った。運転席の男は前を向いたまま、
「あんまりしゃべるな」と苛立った風に言った。
「なんだい。しゃべると情が移っちまうのか?」
運転席の男は黙ったままだ。ぼくはバックミラーごしに男の顔を見た。丸顔にぶ厚い唇。その顔には確かに見覚えがあった。
ぼくは混乱しきった脳みそからなんとか記憶を引き出そうとしたが、駄目だった。この男たちはぼくらをどうする気だろう。誘拐? 何にしても、これが悪い事態であることは確かなようだった。えみちゃんだけでも助けることはできないだろうか。ぼくはドアをちらりと見た。ドアを開けてえみちゃんを放り出す。できるか? それはあまりにも危険すぎた。えみちゃんは無傷ではすまないだろう。ならば、チャンスを待つか?
車は停車した。あたりはもうほとんど暗かった。運転席の男は車を降りると、ぼくたちのいる後部座席のドアを開け、あごでうながした。
「降りろ」
えみちゃんは笑っているままだったので男はえみちゃんをつかむと車の外に出した。ぼくの手は隣のくぼんだ目の男にしっかりと握られていた。
「さあ降りな」
逃げられそうにはなかった。運転席の男は建物の中に入っていく。これはなんの裏口だろう? かすかに脂のにおいがした。建物の色は灰色をしていて、これは商店街の肉屋の裏口ではないかと思った時、ぼくは思い出した。
運転席の男は、肉屋の主人だ。
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