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2005年9月29日 (木)

ノーと言わせてくれ(8)

それから武田は一ヶ月の休養をとりNASAに向かうことになった。
NASAに着くと長官が直々に武田を出向いた。
「やあ、君が武田君だね。その節は大変だったねえ。でも君はいい彼女をもったよね。」
このとき武田は里香の交渉していた相手がNASAの長官であったことを知った。
「ところで私に重要な任務とはなんですか。」
「うん。それなんだが、今度の木星有人探査の件なんだが・・・」
「宇宙飛行士が決まったんですか?」
「それが、決まったといえば決まったんだが・・・」
「それは誰なんですか?」
「この際だからはっきり言おう。候補は君なんだよ!」
「ぼ、僕ですか?ちょっと待ってください。僕は確かに宇宙飛行士ということでノミネートされていますけれどそれは表向きで本当は技術スタッフじゃなかったんですか?それに僕には宇宙飛行士なんか出来ませんよ。」
「そう言われてしまうとそうなんだが、実は候補は10人いたんだがこのプロジェクトが進むうちに一人づつ辞退していって最後には9人とも辞退してしまったんだよ。そして残ったのは君一人なんだ。」
「何故皆辞退してしまったんですか?だめです、だめです、僕なんかが宇宙飛行士だなんで・・・」
「困ったなあ、もう時間がなくなってしまって正直に言うと君がノーといってしまうとこのプロジェクトは終わってしまうんだよ。」
「だったら他に代わりを探せばいいじゃないですか。」
「今から代わりといっても宇宙飛行の知識があって気力、体力があってなんて人そう何人もいないんだよ。」
「僕は体力なんてありませんよ。」
「君は誘拐されて三ヶ月も生き延びて無事に帰ってきた。それに知識も十分だ。君が最適な人なんだよ。それにこんなことは言いづらいんだが、君の身代金三億円を払ってしまったため予算もぎりぎりになってしまったしね。あっ、身代金を払ったから代わりに行ってくれといっているんじゃないだ。でも君なら引き受けてくれると思うんだが、ああ大統領に何て言おう。きっと私はクビだな。君が引き受けてくれると思って三億円もつかってしまった・・・」
そういうと所長は頭を抱え込んでしまった。しばらく沈黙が続いていたが所長は武田のほうにゆっくりと顔をむけた。
「頼む、NASAいや人類の未来のために引き受けてくれ。」
「そんな・・・、でもお世話にもなっているんですが・・・」
「そうか、やってくれるか、きみなら引き受けてくれると思ったよ。これで私もNASAも救われた。ありがとう。ありがとう。」
「い、いえ、引き受けるとは・・・」
「早速この書類にサインをしてくれ。そうそう君の身代金に払った三億円のことは忘れてくれていいよ。」
そう言うと所長は用意してあった契約書を机の引き出しから出した。
「君は人類の勇者だよ。ありがとう。」
そういうと所長はペンを武田に渡して手をとるようにサインさせた。武田もさすがに断りきれなかったのかよく考えずにサインしてしまった。
「あの所長それで宇宙飛行のメンバーとか計画はどうなっていますか。」
「あっ、ああ、あとで詳細を伝えるから。私は直ぐに大統領に会う約束があって行かなきゃならないんだ。また明日ゆっくりと話すことにしよう。」
所長は武田のサインした契約書をひったくるように取り上げると慌てて部屋をでていった。
「所長、あの、待ってください。サインはしましたけれど・・・」
所長は武田の声を聞く余地なく、走って出て行ってしまった。
その晩になって家にもどった武田は部屋のテレビを見ていて仰天した。
ホワイトハウスでの大統領の記者発表に所長が出ていたからである。
「本日、木星探査のための宇宙飛行士が決定いたしました。本計画は人類の未来にとっての重要な役割を担っています。今回の宇宙飛行士は宇宙飛行船の大きさの制限もあり、一名になります。この重要な役割を果たす勇気ある人物を発表いたします。」
「その人物は日本の武田勝利さんです。武田さんは先日のハイジャックで誘拐されながらも不屈の闘志をもって3ヵ月後無事生還された人物です。」
大統領の演説が続いた。大統領の横にいた所長は満面の笑みを浮かべて武田の顔写真を持っていた。
放送が終わってから十分もしないうちに電話がかかってきた。里香からである。
「何やってんのよ!!木星なんか行ったらもう会えなくなるかもしれないじゃない。一体何年いっているのよ。私はどうすればいいのよ。ばかー!」
里香は一方的に電話を切ってしまった。

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2005年9月28日 (水)

ノーと言わせてくれ(7)

武田は何処かの村で下ろされた。目隠しを外したとき自分が自由になったことに確信が持てた。武田は村に入ると自分が誘拐されていたことを伝え保護を求めた。
その後すぐに保護され日本への帰路に着くことが出来た。

武田が成田空港に着いたときには大勢の報道陣に取り囲まれていた。武田は必死に誰かを探していた。武田が一人の女性を見つけると同時にその女性は駆け出して武田に抱きついた。
「ばか、心配ばっかりかけて今度こそ何処にもいっちゃだめよ。」里香は武田をきつく抱きしめた。
その後武田は報道陣の質問攻めに会い、誘拐されていたときの出来事を詳しく話した。
武田が里香のアパートに帰れたのは深夜一時をまわっていた。
「里香どうしても聞いておきたいことがあるんだけど・・・」
「なに?」
「どうして僕は解放されたんだい。」
「そんなこと明日にしない。」
「いや、どうしても今知りたいんだ。」
「いいわ、貴方が誘拐されてから日本では大騒ぎになって。政府をあげて貴方の行方を追ったわ。しかし居場所も犯人も特定できず犯人からの連絡をまっていたのよ。そしたら犯人からのビデオが送られてきて身代金の要求があったのよ。」
「一体いくらだったんだい。それが初めは救出にかかわることなので政府は公表しなかったの。私も総理大臣にまで直訴にいったわ。」
「総理大臣?」
「当たり前でしょ、あなたの命がかかっていたんだから。」
「しかし、一ヶ月たってもいっこうに交渉が進まない様子だったのよ。そこで新聞記者たちに協力してもらって内情をしらべたら身代金が三億円だということがわかったのよ。政府は今までの経験から五千万円程度を考えていたらしく、テロには屈しないという理由で交渉には応じなかったのよ。」
「それでどうして僕は解放されたんだい。」
「もし政府が身代金を払わないと知ったらあなたの命が危ないから、貴方の上司に頼んだのよ。そしたら貴方の上司は研究所を早期定年して何処かにいってしまったというのよ。信じられる?」
「でも誰かが身代金を払ったから僕は解放されたんだろ。一体誰がそんな大金をはらったんだよ。」
「NASAよ!」
「NASA、僕が行く予定だったNASAのことかい。」
「そうよ、私も必死だったからNASAに行って頼んでみたのよ。そしたら直ぐにOKがでたのよ。ただし条件があると言われたわ。」
「どんな条件なんだい。貴方がもし無事に帰ってきたら今度の木星飛行計画の重要な任務に就くことに同意することだって。」
「それはどんな任務なんだい。」
「それが今は話せないんだって、とにかく貴方の命がかかっていたからどんなことでもいいといってしまったのよ。」

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2005年9月27日 (火)

ノーと言わせてくれ(6)

武田はテキサス行きの飛行機に乗り窓際の座席についた。武田の座席は窓側から3席並んだ窓側の席だった。しかもエコノミークラスである。あれだけ空港でもてはやされた武田もこのときは日本の研究員待遇の悪さに痛感していた。(塚原部長など月に一度は客員が来たといっては料亭にいっているのに日ごろの口癖は国からの予算が少ないである。本当に日本の科学技術の研究予算はどうなっているのだろうか?)武田の心は複雑であった。
武田は自分の座席を見つけ座った。しばらくすると身長が190センチ程度ある巨大な大男が真ん中の席に座ってきた。その男の腕は丸太のように太くその腕は自分の座席内では収まらずに武田の席の方にまでかぶさってきた。武田はその体格のみならず顔には濃く長い口ひげを生やした厳つい大男にとても圧迫感を感じていた。
どうみてもプロレスラーかその系統の類にしか見えなかった。その大男の横には黒いスーツケースをもったいかにも商社マンと思える、痩せた風貌の小柄な男が通路側に座ってきた。小柄な男はその黒いカバンを両手でしっかりと抱えていた。武田は何か大事な商談にでも行くんだなと感じた。飛行機の出発時刻13時を過ぎたが武田の乗った飛行機はいっこうに出発する気配がなかった。
30分すぎたころアナウンスがあり「まだ何名かお客様が搭乗されていませんのでご迷惑をお掛けしますが今しばらくお待ち下さい。」との場内アナウンスがあった。武田はそのときスチュワーデスの声はかすかに震えているような気がした。「きっと新人のスチュワーデスの初フライトだな。」と思っていた。しかし出発時間が一時間過ぎてもいっこうに出発する気配がない。あきらかに武田の周りの乗客もいらいらの表情がみえた。その時、
機長からのアナウンスがあった。「当機はただ今ハイジャックに遭いました。どうか落ち着いて座席に座ったままで待機してください。」このアナウンスに乗客は一斉に騒ぎ出した。突然後ろの方の座席からライフルを持った男が「死にたくなかったら静かにしろ!」と持っている銃を乗客に向けて威嚇した。また前方の方からさらに二人の男がライフルを手に持って現れた。「我々は同朋の解放と自由のために戦っている。おとなしくしていれば危害は加えない。」そう言いながら乗客にライフルを向けて威嚇した。武田がその集団が何かのテロリストであることに気がつくのにはそれ程時間がかからなかった。窓の外にはたくさんのパトカーが取り囲んでおりパトカーの赤いライトが窓越しに差し込んでいることが乗客の緊張感を一層高めていた。その後、武田たちが監禁されてからすでに六時間が経過していた。犯人グループは何かを要求している様子であった。武田の座席の通路側にいたビジネスマンは先ほどからそわそわと落ち着かない様子で貧乏ゆすりをしていた。しかしとうとう我慢が出来なかったのか通路を歩いているハイジャックの男に向かって言った。
「おまえたちの要求はなんだ!何が欲しいんだ。」
その男は持っていたライフルの銃口をその男に向けた。
「度胸があるやつだな、我々は同朋の解放と身代金の要求だ!」
「それで交渉は成立したのか。」
「ああ、日本政府は同朋の解放には関与できないが、身代金の50億円を払うといってきた。取引が成立したらお前たちは解放してやる。我々は無駄な血は流さないからな」
「50億円だと、早く俺を解放しろ俺はこれから100億円の取引に行くんだ、明日中に向こうに行かないとすべてだめになるんだ、俺だけでも解放しろ。」
ハイジャックの男は持っていたライフルの銃口でその男の頬を強く叩いた。
「黙っていろ、騒ぐと見せしめにお前から殺してやるぞ。」
そのビジネスマンの頬は見る見るうちに腫れ上がっていった。そして力を失ったようにうなだれた。それから2時間くらいして一台の車が飛行機に向かって来た。飛行機の100mくらい手前でその車は停止し、一人が大きなケースを二つ抱えて飛行機の中に入ってきた。しばらくするとハイジャックの一人が言った。
「我々の要求は一部受け入れられた、お前たちは解放する。」
乗客はいっせいに安堵の声を上げた。
飛行機の外をみると一台の階段車が近づいてきた。そして、飛行機の前後部扉が開いた。
「さあ順番に外に出ろ。」ハイジャックの声に従い乗客は順番に外に出て行った。みな解放された喜びと早くそこから逃げ出したい気持ちがあり小走りに通路を歩いていた。
武田は飛行機の中ほどにいたため最後になってやっと順番がやってきた。そして、痩せたビジネスマンが立ち上がろうとした時だった。
武田の隣の大男がそのビジネスマンの首根っこをつかみ椅子に引き倒した。
「お前はだめだ」ビジネスマンに向かって大男はいった。
「何をするんだ!俺は降りるんだ!」
「我々はまだこの飛行機で同士の待つ国に帰らなければならない。安全が確保出来るまで一人、人質がいる。」
この大男はハイジャックの仲間の一人であったのだった。
「なんで俺なんだ、選ぶんだったら他のやつにしろ。俺には大事な商談があるんだ。」
「だからお前がいいんだよ、お前100億の商談があるっていっていたな。お前を向こうに連れて行った後にまだ身代金が取れるからな。」
「ちょっとまて、俺じゃなくてもいいだろう。そうだお前の隣に座っている奴なんかどうだ。俺より身代金をとれるかもしれないぞ。」
突然その矛先は武田に向けられた。大男は武田に向かって言った。
「お前は何しにテキサスに行くんだ。」
「えーと、そのー、あのー・・・」
「あっ、知っているぞ。その人は木星に行く宇宙飛行士だ。さっき空港で記者会見をやっていたところをみたぞ。」
「何、宇宙飛行士?こいつがか、それに木星だと、はっはっは、こいつは傑作だ。」
「嘘じゃない、そうだおれの持っている新聞にも出ているぞ、ほらどうだ。」
ビジネスマンは大男に武田の顔写真の乗っている新聞を広げて見せた。その横には大きく木星の写真も写っていた。
「そら、嘘じゃないだろう。NASAが関係しているんだ。俺なんかよりずっと身代金とれるぞ。」
そう言うとビジネスマンは立ち上がった。このやり取りの間、他の乗客は全員飛行機を降りてしまい、残ったのはテロリスト達、武田とそのビジネスマンだけだった。
テロリスト達の銃口は一斉にそのサラリーマンにむけられた。しかしビジネスマンは構わず歩きだした。
「俺はとにかく降りるぞ、俺には100億円の商談が控えているんだ。知っているぞ、お前たちの国では勇者が尊重されることを、俺はビジネスマンの勇者だ。この商談が成立しないと家の会社は倒産だ。そうしたら一家ともども心中しなけりゃならないんだ。そうなったら身代金なんて一円も取れないぞ。今行かないとどうせ死ぬしかないんだ。撃つなら撃て!おれは残らないぞ。ここに残るなんて絶対ノーだ。」
一人の男がライフルをビジネスマンに向けて引き金に指をかけた。飛行機内は緊張のムードが漂った。その時である武田の隣にいた男は仲間がビジネスマンに向けている銃口に手を被せた。
「勇者を打つわけにはいかない。人質はその宇宙飛行士にしよう。」
「いや・・・僕もおります・・・」
しかし武田の小さな声はだれの耳にも届かなかった。武田を乗せた飛行機はパキスタン空港に向けて飛び立っていった。武田はいつものように少し背中をまるめ遠くを見つめ黙っていた。
「おい!お前の名前は何ていうんだい。」
「武田です。武田勝利です。」
「そうか武田か?よし武田、機内から何か食うものを探してこい。」
武田は飛行機に搭載されている機内食であることを察し、機内食をさがしにいった。そして皆に機内食を配った。
「そうだ、お前さん宇宙に行くんだってな。たしか木星とか言っていたな。宇宙ってどんなところか俺たちに話して聞かせろ。」
宇宙のことを話せといったってこんな状況ではまともな話が浮かぶわけがない。武田は先日まで研究していたブラックホールの話をすることにした。
「宇宙にはブラックホールというものがあって、何でも吸い込んでいく奇妙な空間があります。それは惑星がつぶれて出来たという説もあり、世界中の科学者がこのブラックホールについて研究しています。このブラックホールの周りには事象の地平線といわれる境界があって、一旦その内側に入ってしまうとあらゆる物体、電磁波、光といえども絶対にその外には出て来れません。もしブラックホールが解明できれば我々の宇宙はなんであるかが分かる可能性が・・・」
武田はブラックホールの話をはじめた、するとさっきまでパンをかじってあっちを向いていたメンバーもいつの間にか武田の前で話を聞きだした。何故そんな話が彼らの興味を引いたのかは定かではないが、話が進んでいくうちに質問するものまでが現れた。
「ところでそのブラックホールって奴はなんでも吸い込んじゃうんだろう、光も吸い込むっていうならどうやってそれを見ることが出来るんだい。」
メンバーの一人の質問に武田は驚かされた、今まで武田はこの話を多くの知人やセミナーで話したがその反応はたいがい「ふーん」とか「へー」とかあまり関心がないような反応ばかりであったからである。武田は自分が誘拐されているのも忘れ夢中になって話している自分に気がつき驚いたが話はとまらなかった。
「素晴らしい質問ですね。そうです、実を言うと見えないからその存在が分かるのです。」
「見えないから分かるだって、そりゃ宇宙人か幽霊みたいなもんだな。」
一人のメンバーの発言に他のメンバーが一斉に笑い出した。
「そうですね、宇宙にある物質は必ず電磁波である光を発しています。しかしある空間の一点だけから光が飛んでこないということはそこに光も吸い込む何かがあるということになります。」
武田の話にメンバーのすべては夢中で聞き入っていた。
「実は正確にいうとブラックホールの周りからは電磁波は放たれていることがわかっています。事象の地平線の外側ではこの電磁波を放出していて、その内側ではすべてのエネルギーが吸収されてしまいます。しかしエネルギーを放出しているためブラックホールはいつか消滅してしまうといわれています。」
話をしているうちにふと我に返った武田は皆があまりに真剣に聞いている姿をみて自分はほんとうに誘拐されているのかと思うほどであった。
 飛行機はいつの間にか彼らの目的であるパキスタン空港に到着した。先ほどの大男がさっきとはまったく違った態度で武田に目隠しをした。
「悪いなっ。我々の安全確保のために、あんたを我々のアジトまで連れて行くことになる。悪いけれどその間目隠しをさせてもらうよ。」
それからの彼らの態度は紳士的なものであった。飛行機を降りてから車を何度か乗換えて6時間程で彼らのアジトに到着した。
そこで武田は目隠しを外された。武田はそこで意外な光景を目にした。そこには女、子供も含め100人ほどの人が集まっていて、とてもこのテロリストの家族とは思えないほど和んだ雰囲気があったからである。
「いいか今日は客人を連れてきた。捕虜だが丁重にあつかってくれ。何ていったってこの客人は我々の先生だからな。」
武田はその言葉を聴いて何を言っているのか良く理解出来なかった。
「いいか、よく聞いてくれ、あんたは我々の捕虜となった。しかしあんたが我々にさっき話した宇宙の話とか何かを皆に教えてくれたらここにいる間は客人として扱ってやる。」
「僕はどうなるんですか?あなたがたの要求は一体なにですか?」
「今はお前さんに話すわけには行かないが、ここでどういう扱いを受けるかはお前さん次第だ。いいな。」
「いいとか、悪いとかそんな問題じゃ・・・」武田はいつものようにうつろな目で遠くを見つめていた。
「どっちなんだ!はっきりしろよ。いいんだな。よし決まった早速明日から講義を始めてくれ。」
翌朝になって武田は20人くらいの人に先日話したブラックホールの話をした。
次の日には40人くらいの人が集まっていた。武田は簡単な話から初めてビッグバーンやその他の宇宙論の話をしていた。1週間もすると200人前後の人が武田の話を聞きにくるようになった。武田は監視役の一人が常時見張っていたもののその他は非常に丁寧な扱いを受けていた。しかし一向に解放してもらえる兆しはなかった。それから1ヶ月くらいたったある日武田はあの大男に聞いてみた。
「一体私はどうなるんですか。身代金かなにか払ったら解放してくれるのですか。」
「それに関しては今お前さんの国と交渉中だ、まだ時間がかかりそうだけどな。それより今後皆に、数学とか物理とか教えてやってくれないか?ここにいる皆は学校なんかいけないからいろんな知識を教えてやりたいんだよ。」
大男はそれっきり何も答えてはくれなかった。武田は翌日から数学や物理といった一般学問の話をしてきかせた。毎日参加してくる誰もが真剣に武田の話を聞いている。武田は以前大学院のときに教授にたのまれて授業を幾つか受け持ったことがあるが、誰もこんなに真剣には聞いてくれた人はいなかった。あのときのむなしさを思うと講義というものが始めて楽しいとさえ思えた。捕らわれの身である武田だったか、時々何だか充実した感じを受けることさえあった。武田のここでの生活が三ヶ月程度たったある日のことであった。あの大男が話しがあると言って武田を呼び出した。
「今日は、お前さんにとってはいい話がある。お前さんとの身代金の交換条件が成立したんで明日解放することになった。実はここの誰もがお前さんになついてしまって、出来ればずっとここにいて欲しいんだが、お前さんは世の中に必要な人間だということが分かったので解放することにした。今からはおまえさんを勇者として扱うことになった。」
武田は翌日この小さな村から解放されることになった。
「すまんな、目隠しだけはさせてもらうよ。」今日はあの大男もやけにしんみりした様子だった。武田が目隠しをされ車を出発するとき大勢の人たちが一斉に叫んでいた。
「武田は勇者、宇宙の勇者!!」
武田の心は非常に複雑な気持ちになっていた。

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2005年9月26日 (月)

ありえない過去への旅

「ヴィユ・モンレアルーーーありえない過去への旅」

竹内薫

  父親の仕事の関係で、子供の頃、幾度となく引っ越しと転校をくりかえした。だから、僕には生まれ故郷というべき場所がない。ニューヨーク市クイーンズ郡の第14小学校に通っていた僕の親友の名前はヘンリーだったし、贔屓(ひいき)の野球選手はNYメッツのトム・シーヴァーだった。

  三つ子の魂百までというが、僕にはいまだに放浪癖のようなものがあって、一箇所に定住することができない。それどころか、もうすぐ四十にならんとするのに、いまだに一度も定職についたことがなく、結婚とも縁がない。僕は、いつも人生をブラブラと散歩している。

  人生だけでなく、僕はよく町を散歩して回る。
 
  町を歩いていると、ふと何気ない路地裏に過去への扉があいていたりする。それは何も建築が古いとか歴史的な記念物が残っているとかでなく、わけもなく、はるか昔への郷愁というか、過去への回帰の感覚が呼び覚まされるのだ。

  過去へタイムスリップしながら、僕はよく自分の系譜に思いをはせた。母方の曾祖父は、富国強兵の明治時代、ドイツに学んで帰国し、日本初の溶鉱炉を設計したが、やがて疑獄事件に連座して失脚し、歴史から抹消された。毎日クレオパトラの風呂につかっている、などとあらぬ噂をたてられた曾祖母は、亡くなる直前、愛宕山下(あたごやました)の生地を訪れ、自分が生まれたときに植えられた桜の木にしばし見入っていた。桜の木は、歴史の波に翻弄(ほんろう)された主人たちのことなど忘れたかのように、今も春になるときれいな花を咲かせる。

  いつのまにか日本の閉塞(へいそく)状況に耐えられなくなっていた僕は、大学を出てから7年ほどカナダのモンレアルに逃げていた。モンレアルは、古フランス語で「王家の山」を意味する。北米のパリともいわれ、街ではフランス語と英語が入り交じり、奇妙にアンビヴァレントな雰囲気を醸し出していた。このルイ王朝時代の植民地は、やがてイギリスとの戦いに敗れ、英語系の住民による政治経済の支配の波に飲み込まれていったが、70年にはフランス系住民の独立の機運が高まり、血なまぐさい闘争の末、政府高官の暗殺を機に戒厳令がしかれ、街は治安部隊の戦車であふれかえった。過激派の「反乱」は鎮圧され、治安は回復したが、フランス系住民の希望は、200年前と同じ怨念となって残った。

  80年代のモンレアルには、日本人は数えるほどしかいなかった。そこで僕が目にしたのは、華やかな表舞台に生きる商社の駐在員や外交官と違って、どこかしら複雑な過去をひきずって、日本から逃避してきた、糸の切れた凧のごとき若者たちの群れだった。たとえば、元全共闘の「落ち武者」が場末のビルの一角に空手の道場を構えていたりした。そんな若者の一人にアメリカ人の父親と日本人の母親をもつYがいた。

  幼い頃に両親が離婚したYは、引き取り手もなく、ずっと寄宿舎暮らしだったが、モンレアルの大学に入学すると、母親が用意した瀟洒(しょうしゃ)なコンドミニアムに独りで住むようになった。Yは、いつも腹違いの弟のポートレイト写真を持っていた。そのセピア色の写真は、なぜかくしゃくしゃで、そこに写っている金髪の少年は、なんだか、見知らぬ「姉」の愛情と憎悪に困惑したかのような表情を浮かべていた。

  あるとき、ヴィユ・モンレアルを二人で散歩していると、Yは、ふいに、自分は何百年も前に一族とともに自害して果てた平家のお姫様の生まれ変わりなのだ、とつぶやいた。

  モンレアルの冬は厳しい。日中の気温が零下20度という日も珍しくなく、鉛色の空と凍(い)てつく大気の中、ビルや家屋のボイラーの白煙が戦いの御旗(みはた)のようにたなびく。ダイアモンド・ダストがきらきらと宙を舞い、人々は、街中に張り巡らされた地下鉄と地下道を利用するもぐらになる。僕は、夏になると、独り、旧市街、ヴィユ・モンレアルを散策したものだ。ルイ王朝時代の入植地の面影をとどめるヴィユ・モンレアルは、長い冬の鬱積(うっせき)を晴らさんとするかのように、人波でごったがえし、週末になると、世界各国から集まった花火師たちが、ジャック・カルティエ橋を背景に瞬間の美を競いあう。

  古来、世界の聖地の多くは宗教と民族が交錯し、血なまぐさい闘争の舞台となってきた。ネイティヴ・アメリカンたちの聖地を奪ったフランス人たちは、この地にノートルダム寺院を建立(こんりゅう)し、山のてっぺんに巨大な十字架をたてたが、やがてイギリス人にしてやられた。

  モンレアルの修道院を舞台にした宗教サスペンス映画にジェーン・フォンダ主演の「神のアグネス」がある。若い修道女の出産と嬰児殺しに犯人はいるのか。それとも、すべては神の奇跡だったのか。ありえない過去を発見した主人公は、やがて、事件を迷宮入りとして閉じる。ここには、20世紀後半の合理的思考に慣れ切った人類が失ってしまった、謎を謎のままに残しておく、素朴な宗教感覚が根づいている。それは、ネイティヴ・アメリカンからフランス人、イギリス人へと引き継がれ、街で話される英語とフランス語のアンビヴァレントな緊張の隙間に潜んでいる。

  モンレアルで、僕は、しばしば、あのタイムスリップ感覚を味わった。だが、そこには、もはや自分の先祖は登場しなかった。王家の山の十字架の近くから眺めるモンレアルのオレンジ色の夜景は、明治の製鉄所でもなく、平家の落ち武者でもなく、なにか、もっと広くて普遍的な宗教感覚のようなものを僕の中に喚び起こした。

  モンレアルは、僕が長い間、探し求めていた故郷を与えてくれたのかもしれない。そして、ありえない過去を受け入れるようになった僕は、やがて、誰にも見送られることなく、この「聖地」をあとにした。

(初出:ホットワイヤード、http://kaoru.toより転載)

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ノーと言わせてくれ(5)

その後、里香は武田のまえに姿を現さなかった。武田が書類にサインをしてから一週間後『木星宇宙飛行士募集』の広告は全国に発表された。その2ヵ月後宇宙飛行士決定と武田の名前が全国に発表された。武田は一日にして一躍有名人となった。しかしそのニュースに映っていた武田はいつものあの背中をまるめ遠くをみつめる姿勢が印象的だった。武田の頭の中は里香のことで一杯であったからである。
 その後一ヶ月が過ぎNASAへ出発の日になって武田は成田空港にいた。その間、里香からの連絡は一度もなかった。日本人が木星への初の宇宙飛行士になるかもしれないと聞いて成田空港には大勢の報道陣が押しかけていた。武田は行く先々で報道陣の質問攻めにあった。しかしその表情はどこかうかない様子でときおり誰かを探しているようでもあった。
 出発の間際になり宇宙研究所の研究所長と塚原部長が武田のところにやってきた。
「君のおかげで来年度の研究予算は大幅にアップしたよ。君は我が宇宙研究所の救世主だ。向こうでも頑張ってくれ給え。」
塚原部長は万弁の笑みを浮かべながら武田にそういった。武田の心の中では何か仕組まれたとうい気持ちもぬぐいきれなかったが、「行ってきます。」と皆に別れを告げた。そのときである。人ごみを掻き分けて一人の女性が武田に飛びついてきた。里香であった。武田に抱きついた里香は武田に向かって耳元で「待っててあげる。」と言ったあと武田にキスをして走り去っていった。武田は心の大きなつっかえがとれたような気持ちになった。「皆さん言ってきます」大きく手を振った武田の表情は先ほどとは打って変わって晴れやかだった。

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ノーと言わせてくれ(4)

「それでサインしてきたというの、ほんとうに貴方って優柔不断な人ね。私たち五年も会えないのね。あなたはそれで良かったの・・・」
武田は里香の前でいつものように、背中をまるめ遠くを見つめていた。ただ、このときばかりはいつもよりずっと遠くを見ているようだった。
「分かれましょ!」里香はそう言うとさっさと部屋を飛び出していった。里香の目には涙が光っていた。
「まって、里香、ちょっと・・・」

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2005年9月25日 (日)

『ドグラ・マグラ』(書評)

『ドグラ・マグラ』夢野久作

大洗藍司

『虚無への供物』と同様、三大奇書とも日本三大ミステリとも呼ばれる小説である。だが、本当に薦めてよいかは悩むところ。本書は好き嫌いが大きく分かれるだろう。
 あるオンライン書店の書評では、『虚無への供物』はほとんどの人が満点を入れていたのに対して、こちらに満点を入れた人は半数以下。また別のオンライン書店では、「文章が読みにくい」と「雰囲気がある」、「何を言いたいのか判らない」「不快感を感じる」と「奇書という言葉はこの小説のためにある」「初めて味わう読後の余韻にただただ脱帽」と評価は真っ二つ。これほど極端に意見が分かれる小説も珍しい。
 ある青年が目覚めるところから物語は始まる。ここは何処か、自分は誰か、全く思い出せない。そして、なぜ自分が監禁されているのかも。こうして話は進んでゆくのだが、それが一貫性があるようなないような、よくわからない方向に進んでゆく。読み終えたあとも、さっぱり訳がわからない。わからないことが心地よいという、希有な小説である。
 気違いによる気違いの書である。大雑把な表現と繊細な描写のアンバランスさが、主人公が狂人である様にリアルさを与えているだけでなく、作者も狂人でなければ書けないだろうと思わせる迫力がある。著者自身「この作品を書くために生まれてきた」と語るとおり、独特の熱気と狂気に包まれている。
 日本のミステリーを一冊挙げろと言われたら、かなり悩みながらも、結局は本書を選ぶだろう。筆名も本書の気違い青年から取ろうと思っていた(青年の名前が見あたらず諦めた)くらい、私はこの小説を気に入っている。
 万人にお薦めはできないけれど、読後自分が気違いになったような気分に浸りたい方には是非お薦めしたい(そんな人いないか?)。ただ『虚無への供物』のように読み易い訳ではなく、一気に読まないとそれこそ訳わからなくなるので、覚悟を決めて読み始めてください。

〈出版〉角川文庫
〈本文文字数〉八〇〇字

追伸
読み終えた人は気が触れるという噂があるそうですので、お気をつけて。

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2005年9月24日 (土)

ノーと言わせてくれ(3)

「武田君!」
武田が朝出勤して自分の研究室に入ろうとしたとき、呼び止めたのは上司の塚原部長だった。塚原部長は現在58歳である。世渡り上手が功を奏して40歳ですでに部長に就任していた。
「あとで話があるから私の部屋にきてくれないか。」
武田は自分の部屋に入りメールのチェックを終えると塚原部長の部屋に向かった。
武田は塚原部長の部屋をノックし中に入っていった。
「塚原部長、話って何ですか?」
「うん、それなんだがね。君も今度の木星飛行計画を知っているだろう。」
「ええ、人類を木星の衛星の一つに送り将来の人類移住計画のデータを収集する計画ですよね。」
「実はNASAからこの計画のスタッフ1名の要請があってね。君も察している通りこの募集は宣伝効果とNASAの資金集めが目的でね。公式には一般公募はすることになっているんだけど実はすでにこの宇宙研究所の中から選抜されることがすでに決まっているんだよ。」
「まさか、私をその候補に考えているんじゃないでしょうね。」
「君は察しがいいなあ。実は宣伝効果のために宇宙飛行士一名募集という形にするんだけれど、実際に木星飛行出来る宇宙飛行士は二、三名だから日本から選ばれるわけはないんだよ。それより優秀な技術スタッフを集めて飛行計画のプラン作成に参加してもらうことが本当の目的なんだ。」
「いや私なんかでなくもっと適任者が・・・」
武田の脳裏には昨晩の里香の言葉「ぜったい断ってよね!」がよぎっていった。
「頼むよ。どうせ四、五年なんだし。それに君は宇宙飛行計算の専門家だからNASAが要求している条件にぴったりなんだよ。私を助けると思って頼むよ。」
「そんなことを急に言われても困ります・・・」
「君も分かっていると思うけれど、今この研究所は不景気のあおりで国からの予算が大幅に削減されることになっているんだ。もしこの木星飛行計画に参加できれば科学技術庁も予算を大幅に産出してくれることになってるんだよ。もしこのまま予算が削減されると私も君も首になるかもしれないんだよ。そこのところを考えてくれないか。君が帰ってきたら部長のポストを約束するからと所長にも頼まれているんだよ。」
「そんなことを急にいわれましても・・・それで返答はいつまでなんですか?」
「それがなるべく早いうちに返答しないといけないんだが、困ったな。実は私のところに届くはずの書類が何処かで間違って配送されたらしく昨日になってようやく私の手元に届いたんだよ。そしたら返答期限が明後日だったんだ。」
「明後日ですか、でも・・・断ってもいいんですよね?」
「いや、あの、その、実は私と所長は明日から緊急の海外出張がはいってしまったため、出来れば今日中に返答が必要なんだ・・・」
「きょっ、今日中ですか!」
「もう今回の候補に匹敵するのはどう考えても君しかいないし、君も宇宙パイロットということで選抜されたことになるからとっても名誉な話じゃないか。それに日本の宇宙産業の将来を担う重要なプロジェクトでもあるし宇宙研究所のため、いや日本国家のために引き受けてくれないかなあ。」
「そんなこと言われても・・・、何時までに返答しなければいけないんですか。」
「時差があるから日本時間で午後4時までなんだ。頼むよ。引き受けてくれるよね。」
「ちょっと・・・、それなら4時まで考える時間を下さい。」
武田はそういうと思いつめた顔で部屋を後にした。
(困ったぞ、困った。里香になんて言おう。)
武田はすぐさま里香の携帯に電話した。しかし電波の届かない場所にいるとのメッセージで里香と話をすることが出来なかった。
午後3時になっても里香との連絡はつかなかった。
そのとき武田の部屋をノックする音が聞こえた。
「どうぞ」と返事をすると塚原部長が入ってきた。手には何か紙を持っていた。
「武田君、イヤーすまん。明日からの出張が急遽早まって今から出なければならないんだよ。ここに承諾書があるから君のサインと僕のサインを書いて直ぐにNASAに送らなきゃならないんだよ。いいよねやってくれるよね。」
「いえ・・、ええと、そのちょっと・・・」
「君には断る理由なんて何もないだろう。こんな名誉なこともないし、それに四、五年なんて直ぐだよ。帰ってきたときのポストも確約されているんだから言うことないじゃないか。私も君みたいな優秀な部下をもって鼻が高いよ。さあ早くサインをして・・・」

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2005年9月23日 (金)

平家の蝶

「平家の蝶」

竹内薫

 もう、かなり前のことになるが、友人の利Qという華道のお師匠さんと一緒に九州山地を周遊したことがあった。利Q師匠は宮崎県のさる旧家の出である。ふだんは東京に暮らしている御仁だが、ミステリーの取材のために、無理矢理説き伏せて、ご同行願ったのである。
 それは、真夏の盛りも過ぎた頃。飛行機で宮崎入りしたわれわれ二人は、電車で日向市まで行って、そこから軽自動車を借りて、九州山地の山奥を目指すことにした。
「竹内センセ、こんな山奥に行くより、シーガイアあたりでパーッと派手に遊びませんか? ゴルフ場もあるしプールもありますよ」
「シーガイアにも行きたいですけどねぇ、椎葉(しいば)と五家荘(ごかのしょう)には歴史のロマンがありますから」
「うーむ、地元の人間には、よくわかりませんなぁ」
 車内の会話はあまり弾まなかった。たしかに、地元の人にとっては、わざわざ東京から飛行機でやってきて、何もない山奥に車を走らせるなど、大いなる時間の無駄としか映らなかったのであろう。
 日向を出るころから曇りがちではあったが、二時間くらい走ったところで雨風が強くなってきた。ラジオをつけてみると、どうやら、大型の台風が宮崎県を直撃するらしい。
「師匠、これも平家の怨念ですかね」
「なにを馬鹿なことを」
「ウチの御先祖は源氏ですから。利Q師匠の御先祖は?」
「もちろん源氏ですわ」
 そりゃそうだ。平家は壇ノ浦で滅びてしまったのだから、現存する家のほとんどは、清和源氏から始まっているのだ。(ウチの場合、戦国時代の後期に勝手に家系図を偽造したことがわかっている。世の中のたいていの家系図は偽物である。)
 宮崎県椎葉村は平家の落人伝説が色濃く残る秘境だ。私はミステリーに使うための「百人一首」の暗号解読に精を出しているうちに、いつのまにか、暗号そのものよりも、その時代背景、特に平家の滅亡へと興味が移ってゆき、さらには落人伝説に魅せられてしまったのである。
 椎葉は九州山地の頂上付近、標高およそ一七〇〇メートルの地点にある。椎葉に近づくにつれ、どんどん道幅は狭くなり、しまいには、ようやく車一台が通れるような細い山道が延々と続くようになる。ガードレールの向こうは断崖絶壁で、その下を小丸川が流れている。
 途中、何度か道に迷ったこともあり、われわれは到着予定時刻を大幅に超過して、殴りつける風雨のもと、ほとんど外燈もない山道を走り続けるはめになった。
 やがて、出会う車もほとんどなくなり、私は、まるで平家の霊に会いに冥界へと旅しているような錯覚に陥った。
 気がつくと、目の前を着物姿の女性が横切った。
「あっ、人だ!」
 私は、急ブレーキを踏んだ。車は雨にスリップし、ガードレールに激突して止まった。だが、外に出てみると、どこにも人影はなく、台風による落石で道が半分ほど覆われていた。私と利Q師匠は、
「気がつかないで石に突っ込んでいたら……」
「竹内センセ、崖から転落していたかもしれませんよ」
 思わず顔を見合わせていた。

***

 利Q師匠から人づてで紹介してもらっていたので、夜半、ようやく宿の「鶴富(つるとみ)屋敷」に辿り着くと、暖かい風呂と酒宴が待っていた。
 椎葉に伝わる落人伝説は、源氏との戦いに破れた平家の残党が、この秘境の地に隠れ住んだ、というものだ。その平家の姫であった鶴富は、のちに、平家追討のために差し向けられた那須与一の弟・大八郎と結ばれることになる。ゆえに、この地にはいまだに那須姓の家が多い。
 敵の娘と結ばれた鎌倉武士の伝説は、どことなくロミオとジュリエットのロマンと重なり、私は、この地に伝わる哀しい「ひえつき節」の調べに耳を傾けながら、八百年前の世界へとタイムスリップしていた。

***

 その後、このときの取材をもとに、『百人一首 一千年の冥宮』という作品を書き上げたのだが、世間は、百人一首の暗号解きや平家の落人伝説になんぞあまり興味が湧かなかったらしく、売れ行きはさっぱりで、担当編集者は社内で切腹寸前まで行った。
 一つだけ、作品に書かなかったことがある。
 それは、台風一過、秋晴れの早朝、車で宿を出た直後のことだった。
「あ、竹内サン、蝶がいますよ」
「え? あ、本当だ」
 目をやると、車の窓ガラスの下に黒い蝶が、うずくまるようにとまっていた。一晩中、車内に閉じ込められていたのだろう。私はふと、昨晩、運転を誤って崖下に転落しそうになったとき、この蝶が平家のお姫さまに姿を変えて私の目の前に現われ、護ってくれたのだと思った。八百年前に平家ゆかりのお姫様が源氏の若武者の命を救ったのと同じようにして。
 私は、車を停めて、そっと窓を開けると、その蝶を外に逃がしてやった。蝶は、しばらくその場で優雅な舞いを見せていたが、やがて、深い草いきれに紛れるように消えた……。

補足:熊本県側の五家荘にも平家の落人伝説が残っており、宮崎→椎葉→五箇荘→熊本という観光ルートは素晴らしいものです。

(月刊「観光」2005年10月号所収)

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お断り

「ノーと言わせてくれ」は、誤字脱字だけ、私の独断で訂正を入れてあります。それ以外はオリジナルのままです。

竹内

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ノーと言わせてくれ(2)

「ばっかねー、何で他人が割った卵を買ってくるのよ。」
武田の彼女である山口里香は武田に向かって呆れた表情をしていた。里香は武田とは大学院の同級生で二人はその時からのつき合いである。しかし里香は宇宙工学の専攻から一変して商社に就職をしたキャリアガールだ。武田はいつものように背中を少しまるめて遠くを見つめているだけだった。武田はなにか都合の悪いことがあるといつもきまってこのように遠くをみつめ黙ってしまうのが癖だ。
「あなたはどうしてはっきりとノーと言えないのかしら。あなた帰国子女でしょ。アメリカに10年も住んでいたんでしょ。帰国子女といったら自分の意見をはっきり言うのが普通じゃない。」
「帰国子女といっても小さいころのことだから・・・でも今晩はすき焼きなんだし、どうせ卵は混ぜちゃうんだからいいじゃないか。しかも半額になったんだからよかったと思えばいいじゃないか。」
「あなたは仕事でもそんな風じゃないの。そんなことじゃ絶対出世なんかしないわね。きっと上司にでもいいように利用されて最後は、ポイとお払い箱いきね。」
里香はだれにでもはっきりと物を言う性格だった。対照的に武田はいつものように少しうつむいて遠くを見つめながら黙っていた。
そんな武田を見ると里香はいつも話を変えてしまうのが習慣だった。
「ところで勝利、あなたのところで今度、木星飛行計画があるんだって。」
「そうなんだ。NASAが中心で進めている計画で、人類を木星にある衛星に送り将来の移住計画の基礎データを集めてくるのが目的なんだ。」
宇宙の話をしている時の武田の目は先ほどの表情とは一変して輝いていた。
「何でもニュースで言っていたんだけれど、この木星計画には日本からも参加する予定な んだって。それってあなたのところでしょ。まさかあなたが木星に行っちゃうなんてことないでしょうね。」
「何ばかなこといってんだ。たしかにうちの宇宙研究所もこのプロジェクトに数名参加する話はきているけれど、それはNASAの資金集めと宣伝の一環で数カ国から参加を条件に資金を集めるのが目的だよ。実際に行く宇宙パイロットは別に決まっている筈さ。
秘密事項だからあまり詳しく言えないけれど、そのうち宇宙飛行士募集なんて宣伝がされると思うよ。」
「でもあなた宇宙物理が専門だからスタッフとして選任される可能性だってあるじゃないの。私を置いてアメリカに行っちゃうなんていやだからね。」
「大丈夫だよ、そのときははっきりと断るよ。」
「ぜったいよ、約束だからね。」

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2005年9月22日 (木)

ノーと言わせてくれ(1)

「ノーと言わせてくれ」

沙架 りゅう・作

武田勝利は典型的な日本人である。友人も多く信望もあつい。いわゆる極普通の典型的な日本人である。そんな武田にも強いてあげれば一つだけ問題がある。それは中々『ノー』と言えない性格なのである。『ノー』と言わない、いや言えないのは武田の個性でもあるが、仲間との調和を乱したくないという温和な性格からくるものでもある。いわゆる平和主義者なのである。しかし、このことが彼の人生において大変な惨事を招いてしまうことを彼は知る余地もなかった。

武田は身長175cm程度の中肉中背である。T大学大学院を卒業後、宇宙研究所に勤務している。宇宙研究所とは宇宙ロケットの開発から宇宙の解明のための研究を含め、宇宙に関する様々な研究をしている国家機関である。NASAからも共同研究や宇宙開発を含め依頼が来ることもがある。武田の専門は宇宙ロケットの軌道計算やブラックホールの解明などに応用する量子力学や相対性理論等である。武田はここでブラックホールの研究とロケットの軌道計算の研究を手がけている。

ある日、武田はいつもの仕事帰りに夕食の材料を買うため、近くのスーパーマーケットに寄ることにした。今晩の夕食は武田の大好物の一つであるすき焼きにする予定である。
武田はスーパーで夕食の材料を一通り集めた。そしてレジに向かう途中に卵を買い忘れたことに気がついた。
「今日は少し贅沢をして美味そうな卵を買っていこう。」
スーパーの中程の卵売り場でよさそうな卵を選定していた時だった。50歳くらいの中年のおばさんが買い物籠を揺さぶりながら「ドスドス」と武田の横を通り過ぎていった。そのときであった。そのおばさんの持っていた籠が積み上げていた卵のケースを一つ引っ掛けていった。そして、一番上に乗っていた卵のケースが床に落ちた。「バシャ!」卵のケースは床におちた勢いで幾つか割れて黄身が飛び出していた。武田はすかさずその卵を拾いそのおばさんに向かって言った。
「あの、落としましたよ。」
しかしそのおばさんは振り向きもせず「すたすた」と歩いていってしまった。
武田は何度も「すみません、落としましたよ。」とそのおばさんに向かって話しかけたが、いっこうに聞こえないのか、聞こえない振りをしているのか、早足で別の売り場の方にいってしまった。
武田は割れた卵のケースを手に持って途方にくれた目で卵のパックを見つめていた。
「いやー、落としちゃったんですねえ。困りましたねえ。もう商品にならないから買い取ってもらうしかないですねえ。」近くにいた店員が割れた卵に気がつき駆け寄ってきて武田に言った。
「いや、違うんです、私じゃないんです。あのおばさんが・・・」
その時すでにおばさんの姿はもはやどこにもなかった。
「そんなこといわれてもねえ、しょうがないなあ。じゃあ半額割引札を貼ってあげますからレジを通してくださいね。」
「あのー、ちがい・・・」
武田の小さな声が聞こえなかったのか無視されたのか、店員はさっさとレジにむかってしまった。
武田はしぶしぶ割れた卵を抱えレジに向かうことになった。

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2005年9月21日 (水)

予告

「蟲供養」と「失敗作」はともに、暗いトーンの作品だったので、ここらへんで、少しユーモア系の作品も掲載してゆきたい。

とはいえ、シュレ猫文章倶楽部でユーモア系を書くのは、私と沙架さんくらいだと思うので、沙架さんの作品になるかな?

沙架さんはデヴュー志望ではなく、推敲もあまりしない性質(たち)らしいが、その作品には、素朴な笑いが込められている。

なお、現在、文章倶楽部とは関係ないのだが、市井奈由他さんの「妖精は子宮のなかで眠る」という作品を読書中。いずれ感想を書きます。

竹内薫

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失敗作(6)

   6

 とても暗い。時間が流れていない。
 体の奥に突き刺さっているかのような悲しみが、ぼくの体を内側から冷たくゆさぶる。
 もうさんざん悲しんだっていうのに、考えることを止めようとしても、止めようとすればするほど、ぼくはまた泣いていた。   
 
 えみちゃんは、最期まで無邪気だった。えみちゃんの命を奪ったあの男たちはぼくから光を奪ってしまった。だけどぼくは光がなくなって闇が見えるようになった。
 ぼくたちは、失敗作なのだ。 
 
 あのとき、男たちはぼくを縛り付けて、えみちゃんをどこかに連れて行った。しばらくしてから警官がやってきた。ぼくは叫んだ。
 「えみちゃんは無事ですか? 大丈夫ですか?」
 青白い顔をしたその警官は口をわずかに開いてこう言った。
 「えみちゃん? ああ、えみちゃんって言うのか、あの肉」  
 
 もう何日が過ぎたのだろう。目が覚めても何も変わらない。結局ぼくはここにいる。
 ぼくにはある予感があった。そしてきっとその予感は当たるはずだった。
 不思議な気持ちだった。寂しくはなかった。それが、当たり前のことのようにも思えた。でも少し、気になることもあった。だけどぼくにとっては、もうどうでも良いことだった。

 ドアが開いた。光が差し込む。
 願わくば、向こうでえみちゃんと再会できますように。
 ぼくは祈りをこめて振り返る。
 「お母さん?」


        
       終

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2005年9月20日 (火)

失敗作(5)

   5

 「あ、もしもし。長谷川さんですか。警察のものです。はい。犯人は捕まりました。いえ、無事ではありません。お子様は、ばらばらにされた後、電動の挽肉機にかけられており、ミンチ状になっていました。遺体の方は署の方にありますが、いかがいたしましょう?」

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2005年9月19日 (月)

失敗作(4)

   4

 この軽い買い物袋は私の体の軽さと同じだ。長谷川友美は買い物袋をテーブルに置くと、イカの切り身を取り出した。大根とともに煮ようと考えていた。家族三人で分けたら、こんなイカなんて一口ずつにしかならない。友美はお湯を湧かしながら殺伐とした気持ちだった。
 そういえば、えみはまだ帰っていない。いつもなら、三十分前に帰っていてもいい時間だ。不安が友美を包み込んだ。時間というものは、気にし始めると途端にゆっくりと時を刻み始める。雲のような動きで進んでいく時間は湿気のような不安を連れてくる。
 友美は囚われないとするように大根を切った。包丁とまな板の音が一人の台所に響き渡った。
 ざくり、とん、ざくり、とん、ざくり、とん。ざくり、とん、ざくり、とん。ざくり、とん、ざくり、とん。
 
 嫌な光景が頭に浮かんだ。今日、スーパーで見た光景だった。
 子連れの主婦。あの子供は6歳くらいだった。母親がレジにならんでいるとき、子供はかごの中の商品を取り出してそれを床に落とした。母親はそれをじっと見ていた。子供の体は歪んでいた。友美はは幼い頃に駄菓子屋で食べた、串に刺さって歪んでいる薄いイカのお菓子を思い出した。そんな体だった。子供は、また別のものをかごから出すとそれをまた床に落とした。まるでそれが自分に義務づけられた仕事であるかのようだった。母親は何も言わずに見つめていた。何かが変だ。友美がそう思ったその時、その母親は子供を蹴った。お腹を蹴りあげたのだった。声をあげてうずくまる子供を母親はなおも蹴った。友美は目をそらすことすら出来ずに呆然としていた。母親は何度も蹴った。声をあげていた。いやな声だった。とてもいやな声だった。そして友美はスーパーを逃げ出した。
 あそこで何が起きたのだろう? きっとそれは、あの母親当人にも分かっていないことなのだ。友美はそんな気がした。
 
 えみはまだ帰ってこない。友美は思った。私はえみを愛している。それは確かだ。かけがえのない私の娘だ。えみは奇跡的に、身体的欠陥を持たずに生まれてきた。えみの笑顔にはずいぶん救われた。
 でも、と友美は思った。もしもえみが奇形児だったら、それでも私はえみを愛していたのだろうか。
 そんな自問自答に答えはなかった。それは、起こらなかったことなのだから。 時計は、七時を指そうとしていた。
 おかしい。何かあったんだわ。最近、この団地内で子供の行方不明が増えている。えみも誰かに誘拐されたのではないだろうか。ゆう君が一緒なはずだけど。ゆう君は頭が良いから、大丈夫だと思うけど。けど。
 ドアを見る。今すぐにでも、えみがドアを開けてくれないだろうか。そうしたら、必ず、あの子を抱きしめよう。現実にそれができればどんなに幸せだろう。しかし今はえみはいない。先の見えない未来は意地悪な舌を出して友美の周りを回っていた。
 途端に、友美の体に電流が走った。ドアのチャイムが鳴ったのだった。
 慌ただしく鍵を開け、ドアをあけると、そこには優子が立っていた。
 彼女は友美を見ると気ぜわしく口を開いた。
「あの、えみちゃんと男の子が連れていかれました。車で。私、見ました。警察に連絡した方が良いと思います。車のナンバーは、覚えてます」
 友美には、優子の声がどこか違う世界から響いてるような気がした。白昼夢を見ているようだった。現実は禍々しく歪み、友美は目眩を覚えてその場にしゃがみこんだ。

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2005年9月18日 (日)

失敗作(3)

  3

 太陽が鬱陶しい。
 優子は夕日に呪いの目を向けた。世界がもう終わりかけているのに太陽は相変わらずたっぷりと光を差し込んでくる。でも光は食べることができない。
 もうずいぶん慣れたとはいえ、空腹感はときに刺すような鋭さに変わり、優子の感覚を支配した。この空腹感を断ち切るには脳のどこの回路をオフにすれば良いのだろう。もしもそんな薬が開発されたら、後先考えずに飲んでしまうだろうと優子は思った。空腹には抗えない。
 歩く足は重く、住宅街はどこまでも続いているように見えた。家に帰ったところで大した食べ物は待っていないという事実がなおさら足取りを憂鬱にさせていた。
 ハンバーガーを食べたい。優子は、昨日もそう思った気がした。おとといも、その前も、ハンバーガーを食べたいと思った気がした。
 私が子供の頃はハンバーガーなんて腐るほどあった。具を足したり引いたり味付けを変えたりした亜種たちがメニューの中に馬鹿みたいに並んでいた。今となっては夢のような話だ。今は、ミンチの牛肉に復讐されている。
 ーポテトはSにしなさい。こう見えても、カロリーは高いんだから。
 そんなことを母親に言われて、しぶしぶそうしたのを思い出す。本当は、あの塩辛いポテトをいっぱい食べたかったのに。
 スーパーの袋は軽かった。二時間並んだ末にこの量だった。鮭の缶詰とジャガイモ2つと大豆の缶詰。これが家族三人の食事になるのだった。父も母も、こんなものを待ちわびて、家で私の帰りを待っている。
 
 十五年前は皆食べ物に飽きていた。食事の退屈さを紛らわすためか、そのバラエティーは増え続けていた。退屈を嫌うこの国においては特にそうだった。口から胃に放り込むだけの単純な食事、ノスタルジーに彩られた昔ながらの食事、芸術品のような複雑怪奇な食事、健康に良いという言葉で味つけられた食事、人々はみな、朝その日の服を選ぶように、気分に合わせて様々な食事を摂った。生物としての義務は、私たちをときに投げやりな気分にさせたり、逆に徹底的に快楽を味わせたりもした。食は多くの芸術と同様に、社会的地位や自分を着飾る記号にもなったし、自分だけの密かな愉しみにもなった。
 しかし今、人間は一種類のみになってしまった。みな、平等に飢えている。戦争と同じように、食料危機は社会の凹凸をなぎ倒して平にした。いや、あの小さな遺伝子改変子供たちは別だ。彼らは不完全な頭と体とを引き換えに、空腹を感じない胃袋を手に入れたのだ。
 住宅街は静まりかえっていた。犬の鳴き声が聞こえなくなったのはいつからだろう。犬を家族の一員にしていた人たちは、その家族の一員をどうしてしまったのか。もちろん、それを責めることは誰にもできない。
 
 食糧。どこかに食糧はないのだろうか。誰かが秘密の隠し場所に山のような食糧を隠し持っているような気が優子はしていた。私をそこに連れて行ってくれるのなら私はなにをしてあげてもいい。
 優子は自分を連れて行く男を想像した。男は何故か顔中に包帯を巻いているのだった。
 「どうぞ。食べてください」
 白いテーブルの向かいに座っている男が優子をうながす。目の前にはサーロインステーキが湯気を立てている。厚さ二センチはある。いや、三センチあるかも。ナイフを入れると肉汁があふれてくる。肉の断面の、良く焼けた表面部と赤い中心部のコントラストはその肉の柔らかな歯ごたえを予想させた。たまらずフォークを突き立てる。包帯男が私を見つめている。私を好きにして。優子はステーキを口に放り込む。

 口の中に唾液が溜まっていた。馬鹿げている。こんな妄想を膨らませながら歩いているよりは食べ物を手に入れる方法を考えたり探しまわったりしている方が有意義だ。
 優子は大学二年生のときに食糧危機を迎えたので育ち盛りは幸福に乗り切った。もうあの豊かな食文化を味わうことはできなくなったのだということを思い知ったのは、数々のファーストフード店がすべて閉鎖に追い込まれ、シャッターだらけになった駅前を歩いていたときのことだった。優子だけではなく、みな、実感がわくまでには時間がかかった。一過性のものだという人もいた。しかし実際は事態は不可逆的に進行していたのだ。
 誰もが呆然としていた。まさか食べ物に足元をすくわれるとは考えもしなかった。事態は深刻だった。何しろ食物のほとんどを他の国に頼ってきたのだから。
 テレビでは、このような事態に陥った原因分析と対策の議論が行われていたが優子には関心が湧かなかった。議論よりも、使いかけのバターと大豆の缶詰、いくつかの冷凍食品とインスタント食品のみになったすかすかの冷蔵庫を新鮮な食材で満たしてくれる魔法を知りたかった。
 街には無気力が溢れていた。人々は完全には開ききっていない目でうろついていた。新聞では毎日のように、食糧を溜め込んだ金持ちが暴徒に襲われるという類いの記事が載った。心なしか、新聞の記事は事件を喜んでいるようにも見えた。都心のはずれ、小金持ち達が静かな生活を営んでいた地域では、暴徒のグループが肉や魚を目指して徘徊していたが、刑務所ではほとんど食事が出ないという噂が信憑性を伴って広まると、暴徒たちはは表面上は姿を消した。
 政府は有効な対策をとることができなかった。自国の国民を食わせるために食糧輸出を止めてしまった外国からは全く相手にされず、政府と国民は経済力が無価値になったという信じがたい事実を突きつけられて思考停止となった。この国には経済力と科学技術しかなかったのだ。その科学技術の方も、二億二千万の人間を生かすだけの食物を一瞬で作り出すようなことはできるわけはなく、せいぜい、栄養価の高い食物をピックアップして人工培養土で育てるという程度のアイディアしかなかった。
 自分の身は自分で守れ。それは正しいが、しかし買い占めや備蓄は食糧不足を加速させた。配給制が成立した頃には、もうたいした食品は残っていなかったのだった。
 空腹のために数々の人間が役立たずになった。街はさながら精神病院が開放されて患者が街に溢れ出たかのようだった。壁の一点を見つめ続けている男、殴り合いの喧嘩を始める男、もうぼろぼろになっている爪を一日中かじり続けている女。
 
 対策委員会の科学班は苦し紛れに一つの案を提出した。ー人間を小さくしてしまえ。食糧あたりの労働力を高くすればいつか食糧の生産が消費に追いつくはずだ。幸い、今の農業技術は体が小さくても可能なものばかりだ。新しい人類に、我々の未来を背負ってもらおうじゃないか。
 この案は受け入れられた。取るべき一手を考えあぐねていたし、空腹では冷静にもなれなかった。結局、法律成立後に妊娠したものはすべて、受精卵への遺伝子改変が義務づけられた。遺伝子改変自体は目新しい技術ではなく、小金持ちの子供はほとんどが改変を受けていた。優子もデザイナーベビーの一人だった。優子は知能指数が180ある、八頭身の美人と生まれたときから決まっていた。未来の子供たちには、成長ホルモンを始めとする成長因子の効果を抑制するための改変が行われることになったのだ。

 数年後、街には奇形児の姿が目につくようになった。頭がいびつに大きな子、体の右半分と左半分の大きさが違う女の子、手が肩から生えている男の子、そしてそれらの子供たちのほとんどが知能未発達だったのだ。
 
 世界から消えつつあるものは食糧だけではない、と優子は思った。それははっきりとしたものではなかったが、確かに消えつつあった。それが何なのか、誰もがわかっているはずだと優子は信じていた。私の心にまだ残っているそれが、本当に消えてしまったとしたら、そのとき私たちはどうなるのだろう。
 影の伸びた道路は、目眩がするほど寂しく見えた。

 道路の先に、子供が二人、歩いているのが目に入った。知っている二人だった。一人は二つ隣に住んでいる長谷川さんの娘のえみちゃん。もう一人はいつもえみちゃんと一緒にいる、目が一つしかない男の子。二人はいつも楽しそうだ。私も小学生のころは楽しかった。あのころに戻りたい、なんて言ってもしょうがないけど。
 一台の車が優子の横を通り過ぎていった。その黒い車は二人の子供たちにゆっくりと近づいていく。優子は嫌な予感を覚え、そしてその予感が当たっていたことにより冷静さを手に入れた。車は、抵抗している男の子と、えみちゃんを乗せて、走り去っていったのだった。優子は、ナンバーを覚えた。

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2005年9月17日 (土)

シュレ猫文章倶楽部とは

そもそもシュレ猫文章倶楽部とはなんぞや?

そんな疑問を抱かれた読者のために簡単に解説しておきます。

もともとは朝日カルチャーセンターの「科学ミステリー講座」から出発し、その後、何度か名称が変わったり、文京区の市民大学講座になったりして、いつのまにか「文学好き」、「宴会好き」(酒豪もいれば下戸もいます)のメンバーで自主的に集まって、作品を書いたり読んだりするようになったものです。

なかには(竹内薫以外の)プロの作家もいて、職業も年齢もバックグラウンドも千差万別な人々の集まりです。
また、この会から出版デヴューできそうな人も出てくるようになりました。(全員が作家志望というわけではありませんが。)

現在、一箇月に一回くらいのペースで会が催されています。

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2005年9月16日 (金)

失敗作(2)

   2
 
 夕まぐれの帰り道は少しだけ肌寒かった。ぼくはえみちゃんの笑い声と小さい白い手に引かれながら、小学校から団地に向かう住宅街を歩いていた。まっすぐ伸びた道路には人も車もなく、ぼくとえみちゃんの影はぼくらの先を歩いた。
 えみちゃんの動きは予測がつかない。ぼくを見て微笑んでいたかと思えば、黄色いスカートをはためかせながら道路の端にかけていき、嬉しそうな顔でブロック塀の何かを見つめていた。その視線の先には、ブロックの隙間から伸びている小さな雑草があった。雑草は、風に吹かれて静かに揺れていた。
 指でつついたりしながらじっとそれを見つめていたえみちゃんは、足下に落ちいているものを拾い上げたかと思うと口に放り込んだ。ぼくはあわててえみちゃんの口の中に指を入れ、飲み込む前にそれを取り出した。こぶしより少し小さいくらいの丸い石だった。えみちゃんはきょとんとした顔をしていた。
 えみちゃんはおかしなことをする。それは時に危険なこともある。えみちゃんは一人で生きていくことができなくて、だから誰かが手助けをしてあげなければならない。だからぼくがそばにいる。
 えみちゃんの横顔は薄いオレンジ色に染まっていた。きれいだった。えみちゃんの可愛い顔立ちは奇跡のようだってみんなが言う。ぼくもそう思う。ずっとえみちゃんの顔を見ていたい。一言もしゃべらずに、一日中でも、三日でも、何百年でも、夕まぐれの中で、えみちゃんと二人、どこにもいかなくても、どこに行っても、ぼくはえみちゃんのきれいな目を見ていたい。
 えみちゃんはすべてのものに平等で、なんでも笑顔で消かしてしまうから、ぼくは屋根の上の陽だまりみたいな気持ちになる。まるで無条件で、この世界に受け入れられているような、世界を愛し愛されてもいいような、そういう気持ちになる。嫌なことは、全部忘れてしまえばいい。
 川口先生に殴られた田中君の怯えた目つきや、おととい嵯峨真弓ちゃんが車に轢かれて死んでしまったことや、これで5人がクラスからいなくなってしまったことや、昨日の夜に家で怒った父さんが椅子を投げてガラスを割ったことや、父さんは常に怒っていて時々ぼくを蹴ったり舌打ちをしたりすることや、母さんがよく気絶して床に倒れることや、これらのことを思い返すと胸の奥が重苦しくなるけど、思い出さないでおこう。
 今は、えみちゃんとの時間を体にしみ込ませて、きちんと大事に持って帰ろうと思う。きっとそれは神様がくれた時間の宝物だから。
 
 家々は静まりかえっていた。沈んでいく夕日はこの幸せな時間の終わりを告げ始めていた。帰りたくないけど帰らなければいけない。えみちゃんはえみちゃんの家に帰りたがっている。えみちゃんを無事に届けるのがぼくの役目だ。えみちゃんのお母さんは暖かくて明るい。きっとそのことはえみちゃんのこの幸せな明るさの素になっているのだとぼくは思う。
 
 ぼくはえみちゃんの手をそっと引いて、団地の方へ歩き出した。
 このときまでは、確かにいつもと同じ帰り道だった。ぼくとえみちゃんの。

 後ろの方から車の近づく音が聞こえてきた。ぼくはえみちゃんを道の端っこに誘導する。車はぼくらの横をゆっくり通り、そのまま通り過ぎるかと思ったぼくの予想に反して、ぼくらの行く手を遮るかのように道端に寄せて停車した。ぼくはえみちゃんの手を引きながら、車と塀の隙間を抜けて先に行こうとした。すると車のドアが開き、中から手が伸びてきてぼくをつかんだ。
 「痛い。はなせ」
 ぼくをつかんでいる男のくぼんだ目と目が合った。男は目を見開いて言った。
 「おい。この子供、言葉をしゃべるぞ」
 「いいから早く連れ込め」運転席から怒鳴り声が聞こえた。そのときぼくは思い出した。畠山君と福沢さんと竹村君がしばらく学校に来ていないこと、それからえみちゃんのお母さんが最近いなくなっちゃう子が多いみたいだけどどうしたのかしら、誰かに連れて行かれたのかもしれないから注意してねと言っていたこと。ぼくは足を踏ん張ってわめいた。
 「誰か。誰か、助けてください」
 「くそ」男は舌打ちをしてぼくを引っ張った。男の力はぼくよりもずっと強く、ぼくは車内に引きずり込まれた。無抵抗のえみちゃんは男に難なくかつぎこまれ、ドアが閉まって車は発進した。
 
 「ぼくらをどうする気ですか?」
 震える声を隠そうとしても駄目だった。足も震えていた。
 目のくぼんだ男が言った。
 「よりによって、しゃべる餓鬼にあたるとはな。お前、一つ目のくせに、知能はまともなのか?」
 ぼくはその質問には答えずに男に言った。
 「ぼくらをどうする気ですか?車を降りさせてもらえないですか?もし今降ろさせてくれたら、ぼくは誰にも言いません」
 「ふん、お前、取引をしているつもりか?なるほど知能は高いらしいな。おれは頭がまともな餓鬼は初めて見るぞ。そっちの子はガールフレンドか?」
 男はえみちゃんの方を見た。えみちゃんは車の外を見てにこにこと笑っていた。
 「その女の子は正常に知恵おくれなようだな。顔は可愛いが。お前ら、知恵おくれと奇形児のカップルか。おい、俺たちはどうやら支え合っている二人をさらっちまったようだぜ」
 くぼんだ目の男は笑いながら運転席の男に言った。運転席の男は前を向いたまま、
 「あんまりしゃべるな」と苛立った風に言った。
 「なんだい。しゃべると情が移っちまうのか?」
 運転席の男は黙ったままだ。ぼくはバックミラーごしに男の顔を見た。丸顔にぶ厚い唇。その顔には確かに見覚えがあった。
 ぼくは混乱しきった脳みそからなんとか記憶を引き出そうとしたが、駄目だった。この男たちはぼくらをどうする気だろう。誘拐? 何にしても、これが悪い事態であることは確かなようだった。えみちゃんだけでも助けることはできないだろうか。ぼくはドアをちらりと見た。ドアを開けてえみちゃんを放り出す。できるか? それはあまりにも危険すぎた。えみちゃんは無傷ではすまないだろう。ならば、チャンスを待つか?
 車は停車した。あたりはもうほとんど暗かった。運転席の男は車を降りると、ぼくたちのいる後部座席のドアを開け、あごでうながした。
 「降りろ」
 えみちゃんは笑っているままだったので男はえみちゃんをつかむと車の外に出した。ぼくの手は隣のくぼんだ目の男にしっかりと握られていた。
 「さあ降りな」
 逃げられそうにはなかった。運転席の男は建物の中に入っていく。これはなんの裏口だろう? かすかに脂のにおいがした。建物の色は灰色をしていて、これは商店街の肉屋の裏口ではないかと思った時、ぼくは思い出した。
 運転席の男は、肉屋の主人だ。

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2005年9月15日 (木)

失敗作(1)

「失敗作」
真鍋友則・作

  1

 とても暗い。時間が流れていない。
 体の奥に突き刺さっているかのような悲しみが、ぼくの体を内側から冷たくゆさぶる。
 もうさんざん悲しんだっていうのに、考えることを止めようとしても、止めようとすればするほど、ぼくはまた泣いていた。
 
 えみちゃん。えみちゃんがいない世界がこんなにも真っ暗だなんて、だからえみちゃんは光だったんだ。太陽よりも明るい、光だったんだ。
 えみちゃんはもうえみちゃんではなくなって、深くて暗くて遠いどこかへ行ってしまった。ぼくを置いて。ぼくをひとりっきりしにして。
 もうぼくには、えみちゃんの声は聞こえない。でもぼくは、聞こえないえみちゃんの声を聞きたくて、暗闇に向かってしずかに耳をかたむける。

 ーぼくはどうしてここにいるのだろう? ぼくは、ぼくが誰だかわからない。
 命は、いつか必ず、壊れて何か別なものになる。ぼくの意識は、きっとどこかでぷつんと消えてしまう。夜になって、眠りに落ちていくときみたいに。生き物たちは、寝たり起きたりを繰り返しながら時間を紡いできた。えみちゃんもぼくも、大きな河の中にできた小さなうずみたいな存在で、そしてえみちゃんはぼくより先に消え去ってしまった。残されたぼくは、電気の通っていない電気製品みたいに、腐らないだけの死体になった。

 えみちゃんは、最期まで無邪気だった。えみちゃんの命を奪ったあの男たちはぼくから光を奪ってしまった。だけどぼくは光がなくなって闇が見えるようになった。
 ぼくたちは、失敗作なのだ。
 
 ーずっと、ずっと遠くで、えみちゃんの笑い声が聞こえた気がした。それはかすかだけど、はっきりと美しかった。だけど闇はすぐにぼくの体を包み込み、ぼくには幽霊のような思い出だけが残る。

 もう何日が過ぎたのだろう。目が覚めても何も変わらない。結局ぼくはここにいる。
 ぼくにはある予感があった。そしてきっとその予感は当たるはずだった。
 不思議な気持ちだった。寂しくはなかった。それが、当たり前のことのようにも思えた。でも少し、気になることもあった。だけどぼくにとっては、もうどうでも良いことだった。

 ドアが開いた。光が差し込む。
 願わくば、向こうでえみちゃんと再会できますように。
 ぼくは祈りをこめて振り返る。
 「お母さん?」

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2005年9月14日 (水)

『放浪処女事件』(書評)

『放浪処女事件』E・S・ガードナー

大洗藍司

 ご存じ、ペリー・メイスンものである。
 ベロニカという、田舎から出てきた無邪気で可愛い若い女性。彼女が浮浪者として逮捕される。彼女にぞっこんになった この小説では男性たるものほとんどが彼女の純真、無垢、素直という魅力にほだされる デパート経営者アディスンは、メイスンに保釈と解決を依頼する。メイスンとの接見で彼女は「ホテルから散歩しただけ」。調書には客引きしていたように見えたとある。どちらが本当か? メイスンは警官に提訴を取り下げさせる一方で、アディスンに言う。「彼女は迂闊者か、それともまた、自分からわざと逮捕されようとしたのか、そのどちらかです」
 彼女との関係を「車に乗せただけ」と言い張るアディスンは、メイスンの言葉を信用しない。だが案の定、ハンセルというゴシップ屋から彼女のことで強請(ゆす)られる。助けを求められたメイスンは、偽造手形でゴシップ恐喝屋をやり込める。が、偽造詐欺が警察にばれて、逆にメイスン自身が窮地に追い込まれる。
 一方、犬猿の仲だったデパートの共同経営者が射殺され、容疑がアディスンにかかる。
 処女のように無垢なベロニカと浮浪容疑逮捕、ゴシップ屋ハンセルの強請、デパート共同経営者の殺害事件、これらがどう絡むのか? 依頼主アディスンをメイスンは救えるのか? そもそもメイスン自身、自らの偽造手形詐欺容疑から脱せられるのか?
 特に裁判シーンが秀逸。ガードナーは作品数が多くて私は数冊しか読んでいないが、その数冊の裁判シーンの中では本書が最も良くできている。それに、恐喝屋をやり込める方法も痛快だし、最後のどんでん返しも、ちょっとあざとい気もするが、見事と言っていい。
 なお、私の高校時代の友人は、A・A・フェア名義『屠所の羊』を薦めていた。これも秀作。

〈出版〉ハヤカワミステリ文庫
〈本文文字数〉七三八字

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2005年9月13日 (火)

蟲供養(5)

***

 朝日が昇ると、昨夜の自分の騒ぎが馬鹿らしくなった。部屋の中には、何もいない。塔子がベッドから出てからは、あんなにはっきりと見たはずの蜈蚣の大群はどこにも姿を現さなかった。
 部屋に入って、ベッドの下を覗く。何もいない。それからありとあらゆる家具をどかしてみたが、蜈蚣など一匹も見当たらなかった。

 何がきっかけかはわからないが、やはり自分はおかしくなってしまったのに違いない。こう連日、幻覚を見てしまうのは、どう考えても普通ではないだろう。病院へ相談に行ったほうがいいかもしれない。
 だが、一人で病院に行く勇気は出なかった。もしかしたら本当に気が狂ってしまっていて、そのまま病院に閉じ込めらてしまうのではないか、そんなことも考える。
 そうやってあれこれと悩んでいるうちに、塔子はいつしかテーブルに突っ伏すようにして眠り込んでいた。

 携帯電話が震える音で、はっと目が覚めた。部屋は暗くなり、着信を知らせる電話のランプがテーブルの隅で瞬いている。急いで電話に手を伸ばしたが、通話ボタンを押す寸前で電話は切れてしまった。着信は、貴志の自宅からである。
 塔子はすぐにかけ直した。二、三回コールしたあと、電話はつながった。
「もしもし、貴志?何で昨日電話に出なかったのよ」
 やっと連絡が取れたという安堵の反動で、思わず腹立たしくなり、塔子はきつい口調で電話口に向かって声をかけた。
「聞いてるの?もしもし?」
 電話の向こう側は、何も応えようとしない。
「貴志?聞いてる?」
 電話口の向こう側からは、物音だけが聞こえる。受話器を何かで擦るような、ガサッ、ガサッ、という耳障りな音だ。
「もしもし?ねえ、ちゃんと喋ってよ!」
 声を荒げて話しかけるが、貴志は応えない。受話器の向こう側の妙な気配だけが、耳朶を震わせる。
「貴志!ねえ、答えてよ!」
 塔子は泣きそうになりながら、何度も電話に向かって叫んだ。
「ねえ貴志、どうしたの?何かあったの?」
 そこで電話はプツリと切れ、ツーツーという電子音に切り替わった。

 塔子はバッグを取ると、携帯電話を握りながら玄関を飛び出した。何か良くないことが貴志の身に起こっているのかもしれない。助けを求めて塔子に電話してきたが、喋ることすらできない状態なのかもしれない……
 貴志のアパートまでは電車を二本乗り継いでいかなくてはならず、三十分くらいはかかる。塔子は逸る気持ちを抑えながら、車窓の景色を目で追い続けた。
  
 アパートの側の駐車場には、貴志の車が停まっていた。やはり貴志は、家の中にいるのだろう。塔子は足を速めて、アパートに向かった。
 貴志の部屋は、一階の一番奥にある。貴志の部屋のポストから、いくつもの新聞が舌のようにはみ出しているのが廊下からも見えた。
 インターフォンを押した。しばらくそのまま待ったが、中から玄関に近づいてくる気配はない。繰り返し押してみるが、返答はなかった。
「貴志?わたしよ。いるんでしょ?」
 ドアを拳で叩きながら、何度も声をかけた。ドアノブをガチャガチャと動かしてみたが、鍵は閉まっている。二日分ほどたまった新聞をポストから引っ張り出そうとしたが、つかえているらしく抜くことができなかった。

「貴志、鍵を開けて」
 塔子はドアの前にしゃがみこんで、新聞紙で塞がれているポストの隙間から、部屋の中に向かって声をかけてみる。もしかしたら、部屋にいないのだろうか。
 携帯で貴志の部屋に電話をかけてみると、すぐにツーツーという音になってしまう。今度は貴志の携帯電話にかけてみると、部屋の中から着信音が微かに聞こえてきた。が、何回かコールすると、留守番電話に切り替わってしまう。
 そのとき、部屋の中で何かが動く気配がした。
―――よかった。やっぱり部屋にいたんだわ。
 塔子は立ち上がると、ドアが開くのを待った。ドアの向こうで、ガサガサと音がする。ドアに何かがぶつかる音がする。
「貴志、大丈夫?具合が悪いの?」
 ポストの隙間から声をかけて励ます。すると、ポストに挟まった新聞が少し動き、横の隙間から何かがスッと出て、すぐに引っ込んだ。そして、物音がしなくなった。
「ねえ、どうしたの?鍵を開けてくれなきゃ、どうしようもないわ」
 もう一度声をかけてみる。だが、返答はない。塔子はもう一度しゃがみこむと、ポストに顔を近づけて中を覗こうとした。
 にゅっ、と黒い棒のようなものがポストから突き出てきた。それは新聞の横の隙間から伸びて、塔子を捕らえようとするかのように空を掻いた。
 刺が生え、先端は小さく湾曲したかぎ爪になっている。根元に向かって太く平たくなった黒いそれは、虫の脚にしか見えなかった。黒い脚は、ドアの外側を探って動くたびに、外廊下の薄暗い蛍光灯を鈍く反射させている。
 ドアの向こう側から、ガサッ、ガサッ、という音がする。ガチャガチャとチェーンを外そうとする音がする。ドアノブが、激しく左右に動いている。

 塔子は息を呑むと、貴志の部屋の前から走り去った。中から出てくるものを、見たくない。ドアの向こうにいたのは貴志ではない。
 通りかかったタクシーをつかまえて、塔子は自分のアパートに駆け込んだ。サンダルを脱ぎ捨てバッグを放り出し、台所の蛇口を捻る。コップに何杯もの水を飲み、シンクにしがみついて塔子は泣いた。
 勢いよく水を飲んだせいだろうか。喉と胃の辺りがイガイガと詰まるような感じがして、吐き気がこみ上げる。涙をこぼしながら塔子は吐いた。
 シンクの中に、水と一緒に黒いものが吐き出される。楕円形の黒いものは、シンクの中を動き回り、排水口へ這いずってゆく。蜚?(ごきぶり)だ。
 また吐き気が襲い、驚きと恐怖で目を見はりながら、塔子は吐き続けた。胃の中が空っぽになり、何も吐くものがなくなっても、嘔吐感は消えなかった。
 喉の壁で、胃の中で、ちくちくと何かが動いている。その気配は腹のほうへ下がり、臍の下で蠢いている。じくじくと腸が食い破られ、皮膚の下に這い出してくる。
 皮膚一枚の下を、楕円形の盛り上がりが這いずり回る。肉と皮膚の間を、ぞわりぞわりと引き剥がすように虫が進む。シンクに吐き出した蜚?(ごきぶり)も流し台を伝って這い出し、塔子の身体に取りついた。
 ベッドの下、本棚の後ろ、タンスの隅、部屋中のありとあらゆる暗がりから、黒い虫たちが這い出てくる。振り払っても振り払っても、刺のついた脚で纏わりついてくる。
  
 塔子は玄関を飛び出した。開け放ったドアから、虫たちは塔子を追ってくる。道の排水溝から、マンホールから、黒い塊が溢れ出して行く手を塞ぐ。
 皮膚を食い破って、身体の中から虫が這い出す。這い出した穴から、新たな虫が入り込んで内臓を喰らう。傷口から流れ出た体液が足を伝い、ベタつく足の指にも虫が取りつく。
 髪の毛の中に入り込んだ数匹が、今度は顔を襲う。手で振り払うと、手の甲に取りついて腕を伝い這い上ってくる。地面に足をつくたびに、足の裏でパリパリという音がする。蜚?(ごきぶり)のすべすべした羽を踏み潰す音だ。
 歩道橋を上る。車道に溢れた虫たちは、車に踏みにじられて潰れた。それでも虫たちの数は減るどころか、さらに塔子に向かって集結してくる。
 左目の中に、二本の糸が見えた。緩やかな弧を描いて、左右に揺れている。それは目の中を動き回り、ぐるりと回って瞼の内側に入り込んだ。プツリと音がして、左目が見えなくなった。頬に、虫の足の感触が伝う。必死でそれを振り払うと、ずるりと湿ったものを引きずって落ちていった。
 顔に手を当ててみる。指が、左目があったはずの窪みに嵌まり、その指を伝って次々と虫が這い出してきた。
 塔子は絶叫した。歩道橋の手すりによじ上る。道には黒い虫が溢れ、足の踏み場がない。歩道橋の下は運河だ。駅ビルの明かりを受けて、水面は滑らかに光っている。
 その柔らかな光に向かって、塔子は跳んだ。

***

 塔子は目を開けた。全身にびっしょりと汗をかいている。白い天井と、薄青いカーテンが目の端に映った。
 あの夜から、どれくらい経ったのだろう。塔子はぼうっとしながら考えた。食べ物が虫に見えたことも、ベッドの中が虫だらけになったのも、貴志の部屋で見たことも、自分の身体が虫に喰われてしまったことも、すべては幻覚だったのだろうか。
 そう、塔子の身体は固定されてはいるものの、何の異常も感じられない。両目できちんとものを見ているし、痛みひとつない。
 こうやってきちんとものを考えることができるのだから、狂っているとも思えない。疲れていて、悪い夢を見続けていただけなのかもしれない。

 塔子は安心して、またうとうとし始めた。ここにいれば、もう怖くない。貴志も、そのうちお見舞いに顔を出すに違いない。
 カチャカチャと金属の触れ合う音がする。看護士が持っているトレーからしてくるようだ。もう一人、白衣を着た男性がいるのが見える。医者だろうか。
 半分閉まっていたカーテンが開かれて、白衣の二人がベッドの側に立った。塔子は顔を横に向けて、二人のほうに視線を向けた。
 二人は両手をだらりと脇に下げ、口を開けている。
 開いているのは口だけではなかった。双眸があるはずの場所には、眼窩がぽっかりと暗い穴を開けている。
 看護士の左目、その黒い穴から、何かがぞろりと這い出てきた。長い触覚をゆらゆらと動かしながら這い出たそれは、刺だらけの足で看護士の頬を伝い降りようとしている。
  
 塔子は絶叫した。両手足はベルトに阻まれて、持ち上げることすらできない。逃げる場所は、どこにもなかった。

                                                (了)

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2005年9月12日 (月)

蟲供養(4)

***
  
 結局、明け方までまんじりともできなかった塔子は、夜が明けてからほんの少し眠っただけでアルバイトに向かった。今日は夜七時まで働かなくてはならない。
 昼の休憩時間、喫茶店に入った塔子は、コーヒーとホットドッグを頼んだ。昨日のことが思い出されて、ご飯を食べる気がしないのだ。
 コーヒーを飲んで、やっとほっとできた。ようやく温かいものを口にできたという感じだ。朝食を食べ損ねたので、食事そのものが久しぶりである。
 ホットドッグを手に取って齧ろうと歯を立てた瞬間、上顎を何かが擦った。不審に思ってホットドッグを口から離す。塔子の目の前で、ソーセージは蠢いた。
「きゃあ!」
 塔子はホットドッグを放り出した。パンの間から転がり出たソーセージは、身を捩りながら皿の上を這ってゆく。周りにいた人々は、突然叫び声を上げた塔子を不審そうに眺めている。だが、動いているソーセージを見て驚きの声をあげる者は一人もいない。
「どうされました?」
 喫茶店の店員が近づいて、塔子に声をかけた。
「こ、これ……」
 塔子は震える指で、ソーセージを指差した。
「何か不都合がございましたか?」
 店員は、皿の上で身もだえているソーセージを前にして、平然と応えた。ソーセージは片側が三角形の頭、その反対は先細りの尻尾を持った蛭となって、伸び縮みしながらテーブルの端を這いずっている。
「あの、もし何かあったんでしたら作り直しますが」
「い、いえ、結構です」
 塔子は立ち上がって財布を掴むと、そそくさと店を立ち去った。

 アルバイトを終えて帰宅した塔子は、ぐったりとベッドに倒れ込んだ。結局昼も、何も口にできなかった。空腹だ。
 しかし、食べ物を口にするのが怖い。昼間の一件で、どうやら自分にだけ食べ物が虫に見えるらしい、ということがわかった。蛭となったソーセージがあれだけはっきりと動いているのに、誰一人としてそれを目に留めなかったのだ。むしろ、騒ぎだした塔子のほうが異様な目で見られていた。
 何がどうなってしまったのだろう。気が狂ってしまったのか。
 塔子は言いようのない孤独を感じ、携帯電話を手に取った。貴志に電話をして、この不安を打ち明けたい。
 コール音が十回鳴って、留守番電話に切り替わった。機械的なアナウンスが、冷たく耳に響く。貴志は、今日はまだ仕事中なのかもしれない。留守番電話には何も吹き込まずに、塔子は電話を切った。着信があったと知れば、かけ直してくれるだろう。
 だが、貴志からの電話は来なかった。こちらからも何度も電話してみたが、留守番電話に切り替わってしまう。深夜を回っても連絡はとれず、塔子は不安な気持ちのままベッドに潜り込んだ。
  
 背中がむずむずする。塔子は何度も寝返りを打った。体勢をかえるとしばらくは平気だが、うとうとしだすとまた身体がむず痒くなってくる。
 仰向けになって両手足をバタバタさせて、もう一度布団を被り直した。蕁麻疹(じんましん)でも出ているのかもしれない。頭まで痒くなってきて、塔子は髪の毛の中に指を突っ込んで掻きむしった。
 するり、と、何かが指の間を抜けた。塔子は、はたと手の動きを止める。何かが髪の毛の中を動いて、耳の裏側をすり抜けて顎の下を回った。
 ざわりと寒気が襲う。塔子は慌てて起き上がると、首の周りを手ではたきながら電気をつけた。シーツの上に、ぱたりと長いものが落ちた。赤黒く細長い胴体にたくさんの針のような足を持ったそれは、左右に身体をくねらせながらベッドの下に逃げ込んでいく。蜈蚣(むかで)だ。
 お尻の下から、もぞもぞと何かが蠢く気配が伝わってくる。慌ててベッドから飛び降り、布団を剥いだ。何もいない。
 しかし、シーツは微かに動いている。細かな凹凸が、繰り返しシーツの上に現れては消えている。
 塔子は思い切ってシーツを剥いだ。マットの上一面に、赤黒い蜈蚣が絡み合って蠢いているのが目に飛び込んできた。数十匹がマットの端からこぼれ、床に落ちる。
 悲鳴すらあげられず、塔子はそのままベランダに飛び出して窓をしっかりと閉めた。震えが止まらない。恐る恐る部屋の中を覗くと、シーツを半分剥がれたベッドは、何事もなかったように煌煌とした明かりに照らされていた。
 その晩塔子は、ベランダで膝を抱えて過ごした。

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2005年9月11日 (日)

漱石と倫敦ミイラ殺人事件(書評)

『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』島田荘司

大洗藍司

 夏目漱石は倫敦(ロンドン)留学中、背が低いことにコンプレックスを持ったり、ホームシックにかかったりしたのは有名な話。漱石の留学とはいつ頃か。シャーロック・ホームズが活躍していた時代である。
 本書は、漱石がホームズに依頼をしてから倫敦を離れるまでを、事件を中心に綴(つづ)った物語である。倫敦の下宿屋で夜中に物音が聞こえ、漱石は怯えて引っ越しをする。が、しばらくしたら、幽霊の物音も引っ越ししてきた。困った漱石は、師と仰ぐシェイクスピア学者に相談する。「ちょっと頭がおかしい男なんだが、今は退院しているので、帰りがけに寄って相談してみが良かろう」「凶暴なところがあるのですか?」「普段はそんなことはない。ただ、気が向くと女装して歩いたり、部屋で拳銃を撃ったり、走っている辻馬車の後ろにやたらに飛び乗ったりするもんだから、近所の連中が無理矢理入院させたんだ」「そんなんで大丈夫なんですか」「付き添っている医者がなかなかの切れ者らしいからね」
 そこで漱石は怖々(こわごわ)ホームズを訪ねるのだが、その出会いが、また強烈! それは読んでのお楽しみとして、幽霊の件はすぐに解決する。だが寒い部屋の中でミイラ化した青年の事件に巻き込まれ、漱石はホームズ達の捜査に協力する。
 本書の語り手は、漱石とワトソン。交互に書き綴(つづ)ってゆくが、それぞれの視点がまた面白い。
 ただ、シャーロキアンを自認される方は、血圧が上がるだろうから、読むのを控えた方が良いかもしれない。なにしろ、ホームズの気違いぶりがハンパでない。けど、どれも理にかなっているので、大笑い。
 この作者、実は自身が大変なシャーロキアンだそうで、だからこそボロクソに書いても許されるのだろう。島田荘司がさほど好きでないからかもしれないが、私は、『占星術殺人事件』や『斜め屋敷の犯罪』よりも本書をベストに挙げる。

〈出版〉集英社文庫、光文社文庫
〈本文文字数〉七五五字

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2005年9月10日 (土)

蟲供養(3)

***

 貴志に送ってもらってアパートに戻った塔子は、その日一日中を眠って過ごした。
 目が覚めてみると、すでに日は暮れ、部屋は暗くなっている。空腹を覚え、よろよろとベッドから這い出した塔子は、冷蔵庫を開けてみた。だがすぐに食べられるものは入っていない。
 コンビニに何かを買いにいくのも億劫だ。しかたがないので米を洗い、ご飯と卵だけの食事をとることにした。
 ご飯が炊けるまでの間、塔子はぼうっとしながらテレビを眺め続けていた。しかし昨夜のことが思い出されて、気味が悪くて仕方がない。
―――いったい、あれは何だったのだろう。
 貴志も、塔子と同じものを見たようだ。二人で同じ幻影を見たとでも思いたいが、あの光景は今もはっきりと思い出す事ができてしまう。いくら打ち消しても、眼窩から這い出す黒い虫の触覚の動きが目に焼き付いて離れない。
  
 炊飯器がピー、という音を立てて、米が炊けたことを知らせた。塔子は台所に立ち、目玉焼きを作ってご飯をよそい、小さなテーブルに並べた。
 テレビを眺めながら、目玉焼きをつつく。よそ見をしながら箸でご飯を掬ったら、箸からすべてこぼれ落ちてしまった。
 箸で茶碗を顎の下まで引き寄せて、もう一度ご飯を掬う。だが、またこぼれる。
「ああ、もう!」
 ちょっとイライラしながら視線を茶碗に移し、もう一度箸でご飯を掬った。米粒のかたまりは箸に乗るが、塔子の見ている前ですべて茶碗の中にこぼれ落ちる。
―――箸の持ちかたが悪いのかしら?
 箸をきちんと持ち直してもう一度掬うと、米粒のかたまりは見る見るうちにばらけていった。
―――何で?
 さらにもう一度掬い、よく目を近づけて米粒を眺めると、米粒のひとつひとつはうねうねと動き回り、箸の間からテーブルにこぼれ落ちていった。
 塔子は箸と茶碗をテーブルの上に放り出した。横倒しになった茶碗からは、米粒がわらわらと這い出してくる。その形はすでに米粒ではなくなり、涙のように片側がすぼまって、尖ったほうには茶色い点が見えた。蛆だ。
「いやあ!」
 塔子は悲鳴を上げてテーブルから後ずさった。白い蛆たちはテーブルの上で、その身を捩って蠢いている。
 塔子は台所に走ってビニル袋を取り、茶碗ごと蛆虫たちを袋の中に捨てた。テーブルにこぼれた分もティッシュペーパーを使ってかき集めた。炊飯器の中身もすべて捨てた。ただのご飯にしか見えなかったが、もう、食べる気が起きなかった。

 ビールを飲んで空腹を紛らわせ、テレビをつけっ放しにしてベッドに横になる。このまま明日の朝までゴロゴロして、朝になったら何かを食べに出よう。
 そうやってうとうとしていると、どこからかカリカリという音が聞こえてきた。がばっと起き上がって耳を澄ましてみる。カリカリ、シャリシャリ、と、何かがビニル袋を擦っているような音。さっき捨てた米粒だ。
 見に行きたくない。だが、放っておいてビニル袋が破けてしまったらと思うと、いても立ってもいられない。
 塔子は意を決して台所に立つと、さっきのビニル袋を中身を見ないようにしながら掴み、大急ぎで玄関を出て芥捨て場に投げ捨てた。ぐしゃりと音を立ててコンクリートに放り出されたビニル袋の中身は、ただのご飯のようにしか見えなかった。

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2005年9月 9日 (金)

蟲供養(2)

***

 事の始まりは、先週末の深夜のドライブだった。付き合いはじめて半年の貴志(たかし)と一緒に食事をし、その後、目的地も決めずにドライブに出た。車の好きな貴志は、そうやってあてどなく車を走らせるのが好きなのだ。
 だが、最初はほろ酔い加減で気分よく出たものの、飲酒の検問を避けて国道から脇道に逸れたのがきっかけとなり、道に迷ってしまった。
 塔子はもともとあまり車を運転しないので、道には不案内だ。だから貴志が帰り道を見つけてくれない限り、どうしようもない。一方、貴志のほうは道を見失ったことを楽しんでいるかのようで、
「日本はどうせ島国なんだから、どんなに迷ったって外国に行っちゃうわけじゃねえし」
 などと、呑気に構えている。

 しかし、さすがの貴志も深夜の二時半を回ってくると疲れてきたらしく、イライラとした様子を見せ始めた。道はどうやら、田圃の真ん中を抜ける農道に入ったらしく、行き先表示はおろか、標識ひとつ立っていない。
 等間隔に暗い街灯が灯っているのだけが救いで、これがなかったら畦道に嵌まりかねないほどの狭い道路だ。道の左右には、平坦な暗闇がのっぺりと貼り付いている。たまにゆらゆらと影が波打つところをみると、恐らく稲が風に揺れているのだろう。
 しばらく真っすぐ進むと、十字路に出た。交差する道の幅は、塔子たちがやってきた道よりやや広く見える。
「よっしゃ。左折しよう」
 貴志は十字路を左に曲がった。
「ねえ、引き返したほうがよくない?」
 塔子は提案してみたが、
「引き返したってどうにもなんねえよ。大丈夫、こっちが東京方面なのは間違いないから」
 貴志は自分の感覚を信じて疑わず、そのまま車を走らせる。

 貴志の方向感覚が正しかったのか、田圃の向こうがわにぽつりぽつりと民家が現れはじめた。
「ほら、やっぱこっちに来て正解じゃん」
 貴志は自分の予想が的中したので、得意顔ではしゃいでいる。徐々に道は広くなり、農道は突然にして一般道につながった。
 だが、相変わらず行き先表示は出てこないし、コンビニも見当たらない。深夜だから当然だろうが、人っ子ひとり見当たらず、民家の灯りもない。まるでゴーストタウンを走っているようだ。
「本当に東京に向かってるの?この道路」
 塔子は不安になって貴志に訊いた。
「たぶん、な」
 貴志もやはり不安になってきたのだろう、先ほどの勢いが引っ込んでいる。
「電信柱とかよく見てろよ。住所がわかるかもしれないから」
「うん」
 番地がわかれば、道路地図で現在地がわかるだろう。
「あー、畜生。こんなときはカーナビ欲しいと思うよな」
 貴志はぼやきながら、クラッチから左足を離して膝を立てた。煙草を持った右手は窓の外に出して、片手運転になっている。運転にも疲れてきたのだろう。
「ねえ、暗いからちゃんと見ててよ」
「大丈夫だって」
 そう言うなり、貴志は急にアクセルを踏み込んで加速した。
「ちょっと!怖い」
「へへー。怖い?」
 先ほどの農道よりは広いとはいえ、車のすれ違いがやっとできるかできないかの道路である。もし対向車が来たらと思うと、生きた心地がしない。だが自分の運転に自信を持つ貴志は、平気な顔でスピードを出し続けている。
「やべえ!」
 いきなり貴志はブレーキを踏み込み、サイドブレーキを引いた。塔子はダッシュボードにつんのめり、車は左右に横滑りして止まった。

「何?どうしたの?」
「……人がいた」
「轢いたの?!」
「当たってない。当たった感じ、しなかったろ?」
「うん……」
 確かに、車に何かがぶつかった感じはなかった。だが、ブレーキをかけてからすぐに、何かを踏んだような気もする。
「どこにいたの?」
「あの倉庫みたいな建物の前だよ」
 貴志は左後ろを指差した。街灯で薄暗く照らされた道路の向こうに、四角く切り取られた影がある。
「……一応、見てくる」
「わたしも行く」
 貴志と塔子は恐る恐る車のドアを開け、辺りを見回しながら建物に近づいていった。

 人らしきものは見当たらない。うめき声なども聞こえてこない。ただ、虫の声が微かに囁いているだけだ。
 建物の前には、なぜか果物や団子が散らばっていた。そして平べったい箱がひしゃげて転がっている。箱の中には白い砂のようなものが入っていたらしく、箱とその周囲にこぼれて街灯の明かりに光っていた。
 さらによく見ると、半分焦げた藁束のようなものが散らばっている。藁束は、まだところどころ燻っていた。
「これ、何かのお供え?」
「お供え?お盆だったか、今日?」
 どうやら砂を入れた箱に果物を供えて、藁束を燃やしていたようだ。何となく、法事のような雰囲気を思い起こさせる。
 建物を見上げると、風雨に晒されてペンキのはげ落ちた看板が斜めにかかっているのが見えた。「虫」と「駆除」という文字だけがかろうじて読み取れる。シロアリ駆除か何かをしていた会社の建物だろうか。
「本当に誰かいたの?」
「そう見えたんだけどさ……」
「一人?」
「いや、二人。ここで蹲ってた。っていうか、土下座してた」
「でも誰もいないじゃない。きっと見間違いよ。まだ酔っぱらってるんじゃないの?」
「そんなわけねえよ。何だよ、脅かすなよな、全く」
 貴志は明らかにほっとした様子で、燃え残りの藁束を蹴散らした。
「こんな紛らわしいもん、こんなところに置いておくなよ」
「やめなさいよ」
 貴志の子供っぽい仕草を、塔子は笑いながら止めた。とにかく、人を轢いたのではなかったことで、二人とも心底ほっとしていた。
  
 急に、虫の声がぴたりと止んだ。耳が痛くなるほどの静寂が、周囲から押し寄せてくる。
「ねえ、車に戻ろう」
 得体の知れない不安を感じた塔子は、貴志の腕をとった。
「あ、ああ」
 貴志も何かを感じたらしく、塔子の手を握って車に向かって歩きはじめた。  
 そのとき、背後から砂利を踏むような音がした。箱からこぼれた砂を踏んだ音だ。貴志と塔子の二人は、驚いて顔を見合わせた。やはり、ここには誰かがいたのか。車にぶつかって跳ね飛ばされ、今頃になって起き上がってきたのだろうか。
 また、静寂が戻った。足音も、衣擦れの音も、何もしない。それがかえって不安を掻き立てた。今、誰かが背後に近づいてきたはずだ。なのに声ひとつかけてこない。
 貴志と塔子は恐る恐る、ゆっくりと振り向いた。
 そこには、作業服姿の男とスウェット姿の女が並んで立っていた。両手をだらりと脇に下げ、口を開けている。
 開いているのは口だけではなかった。双眸があるはずの場所には、眼窩がぽっかりと暗い穴を開けている。
 女の左目、その黒い穴から、何かがぞろりと這い出てきた。長い触覚をゆらゆらと動かしながら這い出たそれは、黒光りする蜚?(ごきぶり)だ。刺だらけの足で女の頬を伝い降りようとしている。
 それを見た塔子は、貴志の腕を引き千切りそうなほどに強く掴んだ。自分の絶叫が耳をつんざく。
「うわあ!わあ!」
 貴志も悲鳴を上げると、塔子を引きずるようにして車に戻り、エンジンをかけた。

 それから夜が明けるまで、二人は止まることなく車を走らせ続けた。どこをどう走ったのかも、覚えていなかった。朝日が昇り、人の姿を見かける時間になってから、二人はやっと車を止めて仮眠をとった。
「お前も見たろ?あれ、何だったんだろうな」
「……わかんない」
 朝が来てしまえば、自分たちの見たものなど、たちの悪い冗談のようにしか思えなかった。

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蟲供養(1)

「蟲供養」

藤薫・作

 両手足がずっしりと重い。指先が砂になって崩れ落ち、地面に吸い込まれてゆく。頭は上下にぐらぐらと揺すられて、とても気分が悪い。身体のどこも動かすことができず、吐き気がするのに横を向くことすらできない。
 塔子(とうこ)はうっすらと目を開けた。ぼんやりとした視界の中に、白い壁が映る。だが、すぐに目眩と吐き気に襲われ、塔子は強く眼をつむってその不快感に耐えた。そのままじっとしていると、背中のほうに暗く深い穴が口をあけ、塔子はその中に仰向けのまま落ち込んでいった。

 しばらくして、また目が覚める。さっきより視界は明るく、頭もはっきりしてきた。だが、身体は動かすことができない。
 まだ夢の続きを見ているのかと思い、今度はもっとしっかりと両手足に力を入れて起き上がろうとしたが、やはり身体は動かなかった。両手首と両足首、そして腰が太いベルトのようなもので固定されているのだ。

 自由に動かすことができるのは首だけで、上半身を起こすことはできない。首の動く範囲で辺りを見回すと、視界の隅に薄青い布切れが目に入った。カーテンのようだ。天井と壁は白く、殺風景だ。ここは自分の部屋ではない。
 カチャカチャと金属が触れ合う音がして、誰かが部屋に入ってきた。ワンピースのような白衣と帆のような帽子。看護士だ。
―――ああ、わたしはきっと頭がおかしくなって、病院に入れられてしまったんだ。
 これまでの記憶が、徐々に湧き出てくる。追いつめられ、行き場をなくした塔子は、海に逃げ込んだのだ。
 服の中に滑り込んでくる水の冷たさが甦る。黄色い水の中に頭まで浸かり、鼻がつんと痛くなり、苦いような水が口の中にどんどん押し寄せてきたところまでを覚えているが、その後どうなったかは覚えていない。
 目が覚めてみたら、こうして両手足を固定されて寝かされているのだ。
―――ここにいたら、もしかして大丈夫かしら?
 他の人間がそばにいる安心感も手伝ってか、希望が生まれる。ここにいればもう怖くない。誰かが必ず、守ってくれるだろう。
 何日かぶりにようやく心身の緊張を解いた塔子は、蕩けるような眠りの中にずるすると埋まっていった。

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2005年9月 8日 (木)

魔術師(書評)

『魔術師』江戸川乱歩

大洗藍司

 日本ミステリー界の偉人を一人挙げるとすれば、何と言っても江戸川乱歩だろう。小説家としてだけでなく、海外ミステリの紹介や、江戸川乱歩賞の創設など、多大な功績を残している。特に乱歩賞に関しては、私は、日本ミステリの原動力になったと理解している。
 私は数年前、久方ぶり 子供の頃の怪人二十面相・少年探偵団のシリーズ以来だろうに『二銭銅貨』『人間椅子』(どちらも傑作!)などの短編を読み、改めて乱歩の面白さを知った。
 だが本作は、それらの短編とは明らかに雰囲気が違う。乱歩の初期の短編が本格や怪奇の傾向が強いのに対して、本作はいわゆる大衆小説であり、少年探偵団シリーズに共通する楽しさや明るさがある。

 蜘蛛男事件を解決した探偵明智小五郎は、休養中の湖畔で美女玉村妙子と懇意になる。一方東京では、実業家福田徳二郎(彼女の叔父)のもとへ、数字が書かれた紙が届く。誰も入れないはずの部屋へ、毎日数字が減りながら届けられる。妙子の要請により福田家の事件に乗り出した矢先、明智は賊に誘拐されてしまう。そして福田家で惨殺事件が起こり、更に事件は宝石富豪玉村家にも及んでいく。明智探偵の命運は、玉村家の人たちの恐怖は、如何に!

 この小説を読むと、読者を楽しませようとする心意気はこういうものかと感嘆する。探偵活劇という言葉はないだろうが、そう呼びたくなる活劇小説である。特に、弁士調とでも言うのだろうか、独特の言い回しが心地よい。
 ついでに言うと『吸血鬼』は、裸体像彫刻を壊すと全裸の女性遺体が出てきたり、唇がなく歯剥き出しの男が登場したりと、サービス満点の傑作である。小林少年も初登場。そして吸血鬼事件のあと、明智は魔術師事件で知り合った女性と結婚する。ちなみに光文社文庫版には、『魔術師』と『吸血鬼』が併録されている。

〈出版〉春陽堂文庫、創元推理文庫、ポプラ社文庫『少年探偵12 』、光文社文庫『江戸川乱歩全集6』、他
〈本文文字数〉七五四字

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