ある大学の若手研究者からお手紙を頂戴した。
その人は「研究者がみんなサイエンスライターとなれば、サイエンスライターはいらない」という発想で科学者や技術者が「表現」を磨くことを提唱しているらしかった。
これは、現在の日本の科学書界を支配している大御所たちの考えと同じ考えだ。あるいは東大の科学インタープリター養成講座のコンセプトでもある。
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私は20年間、サイエンスライターをやってきて、このコンセプトはうまくいかない、という実感をもっている。
実をいえば、私が科学書界の大御所たちから、バッシングされ続けるのも、この意見の相違が大きいように思う。
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「科学者」にコツを教えればみんな「作家」になれるのなら、それに越したことはない。でも、それは不可能だ。作家(ライター)に求められる表現技術は、そんな甘いものではない。幼い頃からたくさんの本を読んできて、十年も二十年もプロとして学び続けて、ようやくあるレベルに達するのであり、一年間、週一の講座で身に付くものじゃない。
もし、「科学者→作家」が可能なら、その逆の「作家→科学者」だって可能だろう。それまで科学に全く縁がなかった人が、週一の講座を受講すれば、その人は科学者としてやっていかれるだろうか。
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いつも出す例で恐縮だが、アメリカではサイエンティフィク・アメリカンが70万部売れていて、日本では、その翻訳版の日経サイエンスが2万部しか売れない。その差は、科学誌の編集者と科学者との力関係だと私は感じている。
アメリカでは、ノーベル賞級の科学者が書いたものでも、表現の専門家である編集者がどんどん手を入れる。科学者が怒り出す、という話を何度も聞いたことがある。だが、相手が一流なら、「あなたは一流の科学者だが、私は一流の表現者だ」と説明すれば、表現の修正が拒まれることはない。
残念なことに、日本では、論文調の特殊な日本語しか知らない科学者に、「あなたは一流の科学者だが・・・」と言ったとたん、「そう、だから私は一流の作家(ライター)でもあるのだ」と言われて終わり、ということが多い。
日本の科学書界は「裸の王様」状態なのだ。
その結果、誰も読まないし、誰も買わない科学書が横行し、恐るべき科学離れが進行した。今や、「日本の中学生は、世界一、科学に興味がない」というていたらくだ(OECDの調査結果)。
科学が面白くないのではない。科学の伝え方が悪いだけなのだ。
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私に手紙をくれた若手研究者は、なんら悪気はないのだと思う。でも、この道20年、サイエンスライターとしてやってきて、日本の科学離れの原因について考えてきて、「受験」と並んで大きな弊害となっているのが、「裸の王様」のサイエンスライティングだという思いが強い。
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「裸の王様」たちは、常に学術論文の基準をそのまま、一般科学書にあてはめて、私の著書のあら探しをしてきた。微に入り細をうがつように「まちがい探し」をして私を糾弾してきた。
「裸の王様」たちの書いた本は、決してベストセラーにならない。すべてが学術論文の基準で書かれているため、一般読者には「苦痛」以外のなにものでもない文章だからである。
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善意から手紙をくれたこの若手研究者に、私の20年に及ぶ「戦い」について語っても、おそらくわかってもらえないように思う。「裸の王様」たちの影響力は強く、私の声は届かない。
「もっと専業のサイエンスライターを!」という私の願いは、日本では、永遠に達成されることがないのだろうか・・・。