成功例と失敗例
科学技術立国の将来像の一つとして、研究開発を支える税金を払っている国民への「説明義務」は欠かせない。
科学者が全員、自分の研究成果をうまく表現して国民に伝えることができれば、それに越したことはないが、たとえば科学読み物を書く場合には、それなりの文章力が必要とされる。
素人が数学者の計算ができないのと同様、あるいは、素人が生物学の実験ができないのと同様、素人が作家並みの文章を書くことはできない。(できたら、その人は「作家」で食べていかれる!)
そこで、文部科学省は、多額の税金を使って、サイエンスライター(コミュニケーター、インタープリター)の養成を始めたわけだが、実状を窺い知る立場にいる私から見て、北海道大学の事例は成功であり、東京大学の事例は失敗である。
北海道大学では、(私が見るかぎり、)サイエンスライターを養成して、さまざまな科学成果を掘り起こして世に「表現する」ことを目指しているのに対して、東京大学では、科学者の文章伝達力をアップさせることを目指している。
海外の事例を見ていると、ここのところ、一流の研究者が、一流のサイエンスライターと共著で本を出して成功することが多い。(たとえば「脳のなかの幽霊」)あるいは、実際に読める科学雑誌として成功している「New Scientist」もサイエンスライターが記事を噛み砕いて書いている。
たしかに、過去にも作家顔負けの科学者はいた。中谷宇吉郎、朝永振一郎、養老孟司・・・しかし、そういった科学者たちは、もともと驚くほどたくさんの本を読んでいて、養成講座なんかなくても、文章表現力があった人たちなのだ。
文学作品をほとんど読んだことのない科学者に「付け焼き刃」で文章技巧を教えて、それでうまい文章が書けるのであれば、同じようにして、ほとんど科学の素養のない人にちょっと訓練をして科学者に仕立てることも可能だろう。
文部科学省は、やがて、北大と東大の成果を「評価」することになる。残念ながら、その結果は東大に軍配があがる仕組みになっている(ように私には思われる)。なぜなら、文部科学省から東大に天下りが行なわれているからだ。
北大の養成講座からは、すでにポピュラーサイエンスの単行本も出ていて、目に見える形で成果が出ている。東大の講座からは、私の知る限り、なんの成果も出ていない。
もし、官学癒着の構造により、立派な成果が無視されて、評価が歪められるような事態になった場合、私は、なんらかの方法で癒着と不正を告発せざるをえない。
逆に、公正な評価が下されるのであれば、もちろん、日本の科学コミュニケーター界にとって朗報となろう。
数年後、どうなるのか、今から注目している。
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