二つの国家論
立て続けに二つの国家論を読んでみた。
藤原正彦「国家の品格」(新潮新書)と安倍晋三「美しい国へ」(文春新書)である。
意に反して、この二冊は、正反対の部類に属するのだと感じた。
「国家の品格」は、とことん理論的で抽象的で爆笑的だ。そこには、現実の政治の色はまったくなく、ひたすら藤原氏の純粋思考の世界における「理想的な国家像」が展開される。また、まさに「超絶」とでも形容できるような「笑い」の種が随所にばらまかれている。
人間の不平等のところでは、藤原氏がベッカムになれない、という例が出てきたので、思わず「ベッカムと比べるなよー」と爆笑した。
また、高校の頃の模擬試験で英語の成績がトップだったから、日本でいちばん英語ができると信じていた、という箇所でも、「ふつう、そこまで自信もたないだろー」と抱腹絶倒した。
一度も英語を母国語とする人間相手に英語をしゃべったことがないのに、日本でいちばん英語ができる、と考えるのは、数学的で抽象的な思考法にほかならない。早い話が、模擬試験の結果をどんどん一般化してゆくのである。
藤原氏が政治家ではなく、数学者兼エッセイストになった理由は、この本を読めばよくわかる。
もともと、講演会の記録をもとにつくられた本なので、おそらく、生の講演会でも、会場は爆笑の渦に包まれていたのだろう。藤原氏の超絶ユーモア精神には脱帽だ。
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対照的だったのが「美しい国へ」である。
政治家の家系に生まれ、幼少時の記憶から現在にいたるまで、安倍氏は具体的な政治の問題とともに生きてきた。
だから、安倍氏の思想は、きわめて実験・観察的で工学的で情緒的だ。
拉致被害者の有本恵子さんのご両親が安倍晋太郎事務所を訊ねてこられて、土井たか子氏の事務所では「お気の毒ですねえ」の一言で終わった、と話されたエピソードなど、すぐにそのまま、旧社会党が国民から見放され、いまだに自民党が政権を担っている理由とつながっている気がする。
この本を読んでいて、爆笑するところは一ヶ所もない。情緒をくすぐられる箇所はたくさんあるし、具体的な政策提言に関しては、「そうだ」と共感できる箇所と「ちがうのではないか」と違和感を覚える箇所が交互に出てくる。
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で、いつも綱渡り的なバランス感覚だけで生きている私としては、「美しい国へ」では、安倍さんにもう少しユーモアの感覚を磨いてもらいたいな、と感じ、「国家の品格」では、藤原さんにもうちょっと具体的な国家の話をしてもらいたいな、と感じた。
無論、ご両人とも、同意されないだろうが。
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火曜日に、三ヶ月ぶりに鈴木光司さんと食事をした。
そのとき、「国家の品格」の話で盛り上がった。
鈴木光司さんも私も、そもそも「歴史的にみて、武士道は、失われるほど普及した時期などなかった」と考えていて、江戸時代の人口の大半を占める農工商の人々はいうに及ばず、皇族を中心とした貴族階級にしても武士道とは無縁だし、それなのに、どうして「抽象的な武士道精神」がイメージとして定着しているのか、不思議でしかたない。(もちろん、「葉隠」の悪口を言っているわけではない。誤解なきよう)
鈴木光司さんは、いま、「なぜ勉強するのか?」という素朴な疑問に答える新書を書いている。(たしかソフトバンク新書)
安倍政権の改革の最重要課題は教育なのだから、タイムリーな出版といえるだろう。
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いずれにしろ、この一週間は、国家とか思想について、ものすごく考えさせれる読書体験となった。
その意味で、「国家の品格」と「美しい国へ」を二冊同時に読んでよかった。この読み方は、オススメですゾ。
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