中年に古典
中年になったからだろうか、この頃、ようやく、科学の古典の「味」が少しわかるようになってきた。
学生時代は、最先端、最先端、難しい数学、難しい数学・・・を追ってばかりで、ニュートンやマクスウェルが書いたものなど読もうという気にもならなかった。
今、科学の古典を読み始めて、かなり後悔している。
こういったものを学生時代に(一部だけでも)読んでいたならば、自分の物理学に対する理解は、飛躍的に向上していただろうに・・・偉大な先人たちの発想や文章にじかに触れることをしなかったために、長年、わからないままだったことが多すぎた。
ファインマン物理学を読んでいると、驚くべきことに、どうやらファインマンさんは、それなりに物理学の古典を読んでいることがわかる。
天才は、それだけの余裕がある、ということなのか、昔の天才が現在の天才を自然に惹きつけるのか。
私もはや中年。
年とともに頭の回転速度は衰えるが、若い頃にはわからなかった概念や思想といったものが、あるとき、スーッと霞が晴れるような感じでハッキリと理解できる瞬間がある。
若い頃は、細かいところにばかり目が行っていたのが、最近は、全体像を見るようになってきたのかもしれない。
マクスウェルの翻訳は、今後二年くらいかけて行なう予定だが、朝日カルチャーセンターでも、できれば、ニュートンの「プリンキピア」とか、ディラックの「量子論」あたりを講読してみたいものだ。(お客さんがいないかもしれないが!)
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